削除された内容 追加された内容
→‎魏滅亡後: 蒯通を儒者とする根拠を要する。『漢書』蒯通伝、史・漢の韓信の伝には「斉の弁士」とあるのみ。儒者が酈食其を「豎儒」と嘲るか疑問(蒯通伝)
19行目:
そこで陳余は、秦の支配下になっている趙を攻めたいと陳勝に申し入れ、[[武臣]]を筆頭に3千の兵を率いて趙の地を攻めた。趙の地を知り、豪族とも交流のある陳余は趙の豪族を説得して味方に引き入れ、趙の10城以上を占領した。
 
だが、途中で攻めても落ちない趙の城があったものの、地元の[[儒者]]{{要出典}}の[[蒯通]]が「秦に仕える趙の太守は報復を恐れて降伏しないので、太守に対し侯の印を渡し報復をさせない形で降伏を促せばよろしいでしょう」と助言し、その結果太守たちは次々と降伏し、かつての趙の首都であった[[邯鄲]]を占領することに成功した。
 
そのころから陳勝は疑心暗鬼に陥り、次々と家臣を殺害しているという話が張耳と陳余に入ってきた。そこでふたりは「武臣が趙王を名乗れば陳勝に殺されることはない」と進言し、武臣が趙王に即位し、陳余を大将軍、張耳を右丞相、召騒を左丞相となった。