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[[観阿弥]]・[[世阿弥]]によって能が大成される直前の[[鎌倉時代]]末期ごとまでは、式三番が猿楽および猿楽座の中心を成す演目として捉えられ、その権威を認められていたであろうことについてはいくつかの傍証がある。『[[世子六十以後申楽談義]]』などの記述に従えば、鎌倉時代最末期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけては、「長」と呼ばれる[[一座]]の[[長老]]が翁を担当し、あわせて座を裁量していたごとくに思われ、時代が下るに従って翁猿楽以外の能が世人の愛好を受けるようになると、座の中で長を中心とする翁猿楽のグループと[[太夫]]を中心とする猿楽(能)のグループに、その職能が分担されていったらしい。しかし、後には、一座の[[棟梁]]たる[[役者]]の権威を示す役として式三番の翁が重視されていたこともあり、人気や貴顕の庇護を背景に太夫の地位にある者が翁を舞うことも次第に多くなっていったらしい。
 
長の地位にある役者以外ではじめて式三番の翁を勤めた者として、記録にその名を留めているのは観阿弥である。観阿弥は[[永和 (日本)|永和]]元年([[1375年]])もしくはその前年に、[[洛中]][[今熊野]]における演能において翁を勤め、専門以外の役者による式三番の上演に先鞭をつけた。その次の世阿弥の世代になると、猿楽
(能)の太夫による式三番の上演は決してめずらしいことではなくなる。また、ふたたび『申楽談義』に拠るとすれば、このなかで世阿弥は、かつて『春日臨時祭記』の記述どおり五役であった翁猿楽は、今では千歳、翁、三番叟の三役による形態であり、特殊な神事能にかぎって父尉と延命冠者を加えると述べており、おそらく南北朝期に専門の役者以外が式三番に進出してゆくなかで、このような省略形態が通常のものとなっていったのではないだろうか。その背景には、圧倒的な人気によって実力をたくわえた猿楽グループが、座のなかで翁猿楽グループを圧倒し、一座の主導権を握ることで、総体的に翁猿楽そのものの権威が失墜してゆく事情があったものと推測できる。