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'''第1次松山抗争'''(だいいちじまつやまこうそう)は、[[昭和]]39年([[1964年]])6月6日(日曜日)[[松山市]]で起こった三代目[[山口組]][[矢嶋組]]組員8人と[[郷田会]][[岡本組]]組員4人との銃撃戦。
 
 
== 第1次松山抗争発生まで ==
昭和39年([[1964年]])4月2日、矢嶋組(組長は[[矢嶋長次]])は、[[松山市]]大手町2丁目22番地の大陸ビルの一部屋を、「八木保」と云う名義で敷金25万円、家賃5万5千円で借りた。矢嶋組は、電通局の下請業者として認可をとって事業を行うために、ここに協同電設株式会社を設立した。矢嶋組幹部・[[片岡正市]]たちが協同電設株式会社に出人りを始めた。
 
同年4月10日ごろ、松山東警察署は、電通局の下請業者としての認可が難しいことを探知し、探知した状況に基づいて内偵を開始した。
 
同年6月1日、矢嶋組は、「八木保」の名義で、東雲ビルと入居契約をし、東雲ビル3階を借りた。
 
同年6月3日、矢嶋組は東雲ビル3階に入居した。
 
同年6月5日夜、松山市南京町のバー「村はずれ」で、矢嶋組若衆・[[末崎康雄]](松山市に拠点を置く[[郷田会]][[清水組]]を抜け、若衆1人を連れて、矢嶋組に移っていた)とその若い者が酒を飲んでいた。バー「村はずれ」は、郷田会・[[郷田昇]]会長の関係のある女性が経営していた。この女性が、郷田会清水組に連絡を入れた。郷田会清水組組員たちが、バーに駆けつけ、末崎康雄たちを[[右手川]]の堤切に連行した。末崎康雄は逃げて無事だったが、末崎の若い者が拳銃で撃たれた。
 
同年6月6日朝、東雲ビルで矢嶋組組員数名が、末崎康雄の若い者が郷田会清水組に銃撃された事件について、協議をした。「矢嶋組がやられたのも同様だ」という意見でまとまった。
 
同日の昼、松山市内の喫茶店で、矢嶋組・片岡が郷田会幹部と話し合いを持ったが、物別れに終わった。
 
同日、矢嶋長次は、銃器で武装した片岡正市、末崎康雄ら矢嶋組組員を、東雲ビル3階に配置した。矢嶋長次は、護衛の幹部とともに、近くの旅館に入った。矢嶋長次の義父・[[森川組]]・[[森川鹿次]]組長は、抗争に反対した。
 
 
== 第1次松山抗争 ==
同年6月7日(日曜日)午前10時、東雲ビルにいた末崎康雄ら矢嶋組組員数人は、郷田会[[岡本組]]組員・阿部を、阿部の自宅の付近で拳銃を突きつけて脅し、乗用車に乗せて東雲ビルに連行し、東雲ビル3階に監禁した。
 
同日午前11時、片岡正市は、松山市南夷町の郷田会岡本組・[[岡本雅博]]組長(後の五代目山口組若中)に電話をかけ、「阿部を人質にとっているから東雲ビルまで受け取りに来い」と伝えた。郷田会岡本組組員・大石ら4人が、猟銃21丁、拳銃1丁を持って、平素郷田会が使用している乗用車2台に2人ずつ分けて乗り、東雲ビルに行った<ref>「国会会議録・第046回国会 地方行政委員会 第55号」では、乗用車2台と明記されているが、『瀬戸内遊侠伝 博徒・森川鹿次の生涯』では乗用車3台と記述されている</ref>。
 
同日午前11時50分ごろ、東雲ビルの西側の通りを北に向かって走っていた郷田会岡本組の乗用車2台が、通りを歩いていた矢嶋組組員の2名と遭遇した。矢嶋組組員2人は、北の方に逃げた。郷田会岡本組の乗用車2台は、矢嶋組組員2人を追って、T字路まで進み、T字路で互いに猟銃や拳銃などを数発撃ち合った。矢嶋組組員2人が東雲ビルに向かって逃げた。郷田会岡本組の乗用車は、矢嶋組組員2人を追い、さらに30メートルほど先で、互いに撃ち合った。矢嶋組組員の1人が負傷した。その後、矢嶋組組員2人は東雲ビルに逃げ込んだ。郷田会岡本組の乗用車2台が東雲ビルの路上に到着したとき、東雲ビル3階の窓から矢嶋組組員数人が、郷田会岡本組の乗用車2台にめがけて拳銃や猟銃を数発撃ち込んだ。郷田会岡本組組員1人が負傷した。東雲ビル3階には、片岡正市、末崎康雄ら矢嶋組組員8人がいた。
 
同日午前11時50分ごろ、一般人が[[松山東警察署]]に110番通報して、[[平和通り]]の東雲ビル前で銃撃戦が行われていることを伝えた。同時刻ごろ、通行人が松山東警察署に、東雲ビル前での銃撃戦を届け出た。
 
同日12時5分ごろ、松山東警察署の捜査員6名が、防弾チョッキを着用して、東雲ビル前に急行した。
 
同日12時10分ごろ、松山東警察署は、全署員に非常招集を行なった。
 
同日12時30分ごろ、松山東警察署は、[[愛媛県警]]本部に、東雲ビルでの銃撃戦を報告をした。
 
同日、松山東警察署の捜査員6名が東雲ビルに到着すると、郷田会岡本組組員4人は、2台の乗用車に乗って逃走した。
 
同日午後1時ごろ、非常召集に応じた松山東警察署署員が約30名が東雲ビルに到着した。松山東警察署署員は、東雲ビルを中心に、東西300メートル、南北約100メートルにわたって交通を遮断した。
 
同日午後1時30分ぐらいから午後2時ぐらいまで、東雲ビル3階に立てこもった矢嶋組組員は、拳銃や猟銃数発を、人のいない路面に、威嚇をして発射をした。4千人の見物人が集まった。結局、東雲ビルを取り囲んだ警官隊は250人だった。警察が矢嶋組組員に出頭を要求したが、立てこもった矢嶋組組員は警察の出頭要求には応じなかった。
 
同日午後2時35分ごろ、末崎康雄が、阿部を連れ、ライフル銃1丁、猟銃1丁、拳銃1丁を持って、東雲ビルから投降した。警察は、末崎康雄を[[殺人未遂]]及び[[銃砲刀剣類所持等取締法]]違反で緊急逮捕した。警察は、阿部に任意同行を求め、不合法監禁の被害者としての取り調べた。片岡正市が、警察隊に、午後3時15分までに全員を連れて投降する旨を伝えた。
 
午後3時15分を過ぎても、矢嶋組組員は投降しなかった。
 
同日午後4時、警察隊より東雲ビル3階に催涙弾2発が撃ち込まれ、防弾チョッキを着用した捜査員約10名が東雲ビル内に突入した。東雲ビル3階に立てこもっていた矢嶋組組員7人全員が逮捕された。逮捕の際、警察側に軽い負傷者も出た。
 
同年6月11日、山口組は、山口組系列14団体101人を松山市と今治市に派遣した。本多会も、郷田会を応援するために、本多会系6団体44人を派遣した。[[愛媛県警]]の厳重な検問により、両団体の応援は阻まれた。矢嶋組は直系構成員ほぼ全員の20人が逮捕された。郷田会も41人が逮捕された。矢嶋長次と郷田昇も[[凶器準備集合罪]]で検挙された