「上杉憲盛」の版間の差分

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'''上杉 憲盛'''('''うえすぎ のりもり'''、[[1530年]]‐[[1575年]])は、[[日本]]の[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の人物。[[上杉憲賢]]の嫡男で、[[武蔵国]]の[[深谷上杉家]]当主。
 
{{武士/開始|上杉憲盛}}
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{{武士/兄弟|[[上杉氏盛]]?}}
{{武士/妻|正室:[[太田資時]]の娘}}
{{武士/子|[[上杉氏憲 (深谷上杉氏)|上杉氏憲]]、[[深谷吉次]]、[[成田長忠|成田泰喬]]室}}
{{武士/終了}}
 
==概要==
通称は三郎。のちに静徹と号する。父・憲賢が[[成田長泰]]と結んだ際に姪とされる太田資時の娘(資時の早世後、その弟[[太田資正|資正]]が[[太田氏]]を継いだために母とともに実家に戻っていた)を正室に迎えた。当時の武蔵国は、[[川越夜戦]]で[[扇谷上杉家]]を破った[[後北条氏|小田原北条氏]]が勢力を拡大しており、憲盛は苦境に立たされていた。
 
==北条家との抗争==
[[山内上杉家]]の[[上杉憲政]]が[[上野国]]を追われると、[[関東管領]]としての[[上杉氏]]の権威も衰退した。周囲が北条氏に下る中、[[岡谷清英]]や[[秋元景朝]]ら重臣の活躍によって深谷城を守り続けるが、やがて憲賢父子も苦渋の決断により北条氏に降伏した。[[永禄]]3年([[1560年]])、父の死とともに憲盛が[[家督]]を継いだ。
 
後に、山内上杉氏の家督を継いだ[[上杉謙信|上杉政虎]](謙信)が大軍を率いて関東侵攻を始めると同族の好しみでこれに寝返るが、北条氏が勢力を回復すると永禄6年([[1563年]])には再度北条氏に降る。この時、政虎の命を受けた[[成田氏長]](長泰の子)が憲盛の[[深谷城]]を攻撃している。後に氏長が北条氏に降伏すると、娘を氏長の弟・[[成田泰喬長忠|泰喬]]に嫁がせて和解した。憲盛が北条家に降伏したことは上杉政虎の'''関東撤退'''に繋がった。
 
ところが、[[1569年]]([[永禄]]12年)の[[越相同盟]]の締結によって深谷城が上杉氏の勢力下に入ったために上杉政虎に属す。同年には[[武田氏]]の侵攻に備えた[[北条氏邦]]から援兵を求められる。この時は実際に援軍を派遣したかどうかはわかっていない。のちに、同盟破綻後にも北条氏側に復帰しなかったために北条氏、更に上杉氏と対立していた[[甲斐国|甲斐]][[武田氏]]までが深谷に侵攻するがなんとか防戦する。憲盛は死の直前まで上杉氏の配下として行動しており、深谷上杉家の北条方への帰属は憲盛が死んで、親北条である氏憲が家督を継いだことによる路線変更によるものと考えられている。
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