「高松藩」の版間の差分
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== 藩史 ==
[[豊臣氏]]家臣の[[生駒親正]]が、[[豊臣秀吉|秀吉]]の[[四国]]平定後の[[天正]]15年([[1587年]])
讃岐国は一時、隣国[[伊予国]]の3藩、[[西条藩]]主・[[一柳直重]]、[[大洲藩]]主・[[加藤泰興]]、[[今治藩]]主・[[松平定房]]により分割統治された。
そして、その翌年、寛永19年([[1642年]])東讃地域に、[[常陸国]][[下館藩]]より[[徳川御三家|御三家]]の[[水戸徳川家]]初代・[[徳川頼房]]の長男・[[松平頼重]]が12万石で入封し、実質的に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり[[徳川幕府|幕府]]より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられたという。▼
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頼房は兄である[[尾張藩]][[徳川義直]]・[[紀州藩]][[徳川頼宣]]に先だって男子を設けたことを憚って、長子・頼重ではなく第三子・[[徳川光圀|光圀]]を[[水戸藩]]主に立てた。しかし、光圀は長兄・頼重を思い、後嗣を頼重の子である[[徳川綱条|綱条]]に譲り、自身の長子である[[松平頼常|頼常]]を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、潅漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、[[幕末]]には財政は逼迫した。▼
▲頼房は兄である[[尾張藩]][[徳川義直]]・[[紀州藩]][[徳川頼宣]]に先だって男子を
松平氏五代藩主[[松平頼恭|頼恭]]は[[平賀源内]]を起用し城下の栗林荘(現在の[[栗林公園]])に薬草園を作らせた。また、[[医師]]の[[向山周慶]]に製糖技術を学ばせ[[白糖]]の製造を可能にした。これにより[[塩]]・[[綿]]と並ぶ[[讃岐三白]]の一つである讃岐[[和三盆|和三盆糖]]の製造技術が確立し現在も香川県名産品の一つとなっている。▼
▲松平氏
幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、また逆に最後の藩主・頼聰の妻が[[井伊直弼]]の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、[[慶応]]4年([[1868年]])の[[鳥羽伏見の戦い]]では幕府方に付き朝敵となった。これにより[[土佐藩]]・丸亀藩などが高松城下に進駐したが、戦わず恭順の意を示したことにより赦免された。▼
▲幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、また逆に最後の藩主・松平頼聰の
[[明治]]4年([[1871年]])[[廃藩置県]]により高松県となり、のち香川県となった。▼
▲[[明治]]4年([[1871年]])、[[廃藩置県]]により高松県となり、のち香川県となった。
== 歴代藩主 ==
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[[親藩]]・[[御連枝]] 12万石 (1642年 - 1871年)
#[[松平頼重|頼重]](よりしげ)〔正三位、讃岐守・左近衛権少将・参議〕
#[[松平頼常|頼常]](よりつね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権少将〕([[水戸藩]]主・[[徳川光圀]]
#[[松平頼豊|頼豊]](よりとよ)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
#[[松平頼桓|頼桓]](よりたけ)〔従四位下、讃岐守・侍従〕
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