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== 概略 ==
「遊印」とは、もともとは[[明代]]に[[皇帝]]の辞令などの不正を防ぐ目的で文書に捺された印のうち、右肩部分に割印された'''引首印'''(関防)に対して、'''押脚印'''または'''圧角印'''を指し示す呼称である。[[書画]]に捺すようになってから自由に場所を選んで捺せるという意味で使われ始めた。
 
しかし、その'''印文'''の意味を捉えるならば、[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]から[[秦]]・[[漢]]において'''関章'''(閑章)と呼ばれた印章の流れを汲んでいる。
その始まりは古く、中国の[[秦]][[漢]]の[[古璽]]にまで遡られる。この時代の遊印はすべて'''私印'''であり、縁起のいい語句や戒めの言葉などが刻されているので'''吉語印'''または'''間章'''と呼ぶ。この印を腰に佩帯して吉祥を招こうとしたのである。なお、稀に姓名印に吉語印を付帯したものがある。
 
その始まり関章古く実用的な目的を持たず中国の[[秦]][[漢]]の[[古璽]]にまで遡られる。この時代の遊印はすべて'''私印'''であり、った。縁起のいい語句や戒めの言葉などが刻されているので'''吉語印'''または'''間章'''と呼ぶ。この印を腰に佩帯して吉祥を招こうとしたのである。なお、稀に姓名印に吉語印を付帯したものがある。
 
[[宋代]]以降に[[文人]]による[[篆刻]]が盛んになると、[[座右の銘]]や[[漢詩|詩文]]、宗教的な語句、風流な文などを印文とするようになる。これを'''成語印'''または'''世説印'''と呼ぶ。絹や紙に鈐印して書画の飾りとしたのである。南宋の[[賈似道]]の用いた「賢者而後楽此」の印が成語印の最初とされる。[[元朝]]では[[趙孟頫]]や[[王冕]]に見られ、[[明]]の[[文彭]]・[[何震]]以降に大量に出現した。
 
書画の[[落款]]として使用される場合、'''白文'''(陽刻)の姓名印の下に、'''朱文'''(陰刻)の遊印が捺されることが一般的である。この風習は明代の[[沈周]]に始まりその後[[呉派]]によって広められた。
 
日本では[[江戸時代]]初期に翻刻された『飛鴻堂印譜』に感化を受けた[[書家]]や文人によって遊印が作成され始めた。