「夏侯嬰」の版間の差分

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===その末裔たち===
夏侯嬰の封土は、嫡子の[[夏侯竈]](夷侯)、孫の[[夏侯賜]](共侯)が世襲した。夏侯賜の嗣子の[[夏侯頗]]が亡父の跡を継いで、[[平陽公主]]([[景帝 (漢)|景帝]]の娘)を娶るが、彼は淫乱であり、亡父の側室と密通した過度で、[[紀元前115年|前115年]]に[[自決]]を命じられて死に、国は召し上げられた。以降の夏侯氏の消息は不明である。なお、夏侯頗の妻の平陽公主が「孫公主」と呼ばれていたことから、夏侯頗の子孫は「孫氏」を名乗るようになった。
 
ちなみに[[後漢]]末に[[魏 (三国)|魏]]の礎を創った[[曹操]]は夏侯嬰の子孫であるとの説が有力である。その説によると、夏侯嬰の末裔とされる曹操の父の[[曹嵩]]が曹操の祖父の[[曹騰]]に養子になることによって、曹の姓を名乗ることになったとされている。
<!--[[三国志]]に出てくる[[夏侯惇]]などのルーツかどうかは定かでない。-->
 
==関連項目==