「国立自然史博物館 (フランス)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
AlleborgoBot (会話 | 投稿記録)
5行目:
この博物館が正式に発足したのは、[[フランス革命]]中の[[1793年]][[6月10日]]、[[国民公会 (フランス)|国民公会]](la [[w:fr:Convention#Histoire|Convention]])によってだったが、その起源は、[[1635年]]にフランス国王[[ルイ13世 (フランス王)|ルイ13世]]が創設し、王の侍医たちにより監督運営された「王立薬草園」(''Jardin royal des plantes médicinales'')に溯る。しかし、[[1718年]][[3月31日]]に少年王[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]の勅令によって医学的な機能は排除されて、自然史に集中することになったので、単に「王立庭園」(''Jardin du Roi'')として知られるようになった。
 
[[18世紀]]の大半([[1739年]] - [[1788年]])、本庭園は指導的な[[啓蒙思想]]の[[博物学者]]の一人[[ビュフォン|ビュフォン伯ジョルジュ=ルイ・ルクレル]]([[w:fr:Buffon|Georges-Louis Leclerc, comte de Buffon]])の監督下にあって国際的な名声と社会に対する信望とを獲得した。[[1793年]]に、本庭園は自然史博物館に編入されたが、その後も一世紀にわたり活発な活動を続け、特に[[化学者]][[ミシェル・ユェーヌ・シェヴルール]]([[w:en:Michel EugeneEugène Chevreul|Michel EugeneEugène Chevreul]])の監督下にあって、[[科学]]的研究において[[パリ大学]]([[w:fr:Université de Paris|Université de Paris]])と拮抗するようになった。
 
こうした状況は、本博物館を自然史に重点を置くよう戻す[[1891年]][[12月12日]]の法令により終わりを告げた。[[1907年]]に財政的な自立を獲得した後、本博物館は改めて発展しだし、[[大戦間]]にあってもフランス全土において施設を開設した。この数十年来、本博物館は、人間による環境開発の影響を研究・教育することに力を注いでいる。