「浅野長広」の版間の差分

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[[元禄]]7年([[1694年]])8月21日、兄長矩から[[播磨国]]赤穂郡の新田3,000石を分与されて[[旗本]]の寄合(3,000石以上の旗本で無役の者)に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。同時にこのとき子のない長矩の仮養子となる。元禄7年9月1日、はじめて将軍[[徳川綱吉]]に拝謁。
 
元禄8年([[1695年]])12月、長矩が病気で危篤に陥るに及んで仮養子から正式に養子となった。しかし次第に兄と不仲となっていき、廃嫡の噂も立てられた。元禄13年([[1700年]])11月14日には[[伊勢国]][[菰野藩]]主[[土方雄豊|土方市正雄豊]](1万1,000石)の養女(雄豊の早世した嫡子[[土方豊高|土方杢之助豊高]]の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には浅野内匠頭長矩が[[天和 (元号日本)|天和]]3年([[1683年]])に勅使饗応役を命じられた際に土方雄豊が院使[[饗応役]]を務めていたことが関係していると思われる。
 
元禄14年([[1701年]])3月14日、兄浅野長矩が江戸城において[[高家]]肝煎[[吉良義央]]に刃傷に及んで切腹となると、弟長広も連座して閉門謹慎、また3,000石の所領も召し上げられた。その後、浅野の遺臣[[大石良雄|大石内蔵助]]らは浅野長広をもっての浅野家再興運動をおこなっていたが、翌年[[7月18日 (旧暦)|7月18日]]に広島浅野本家にお預けとされ、浅野家再興は絶望的となる。大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから5ヵ月後の事であった。なお長広自身は、お預かり中、浅野本家から1,000俵が支給された。