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武帝は西域の[[大宛]]に「[[汗血馬]]」という良馬を産して聞き、譲りうけてもらえるよう使者を派遣するが、使者は殺されて、金銭は略奪された。
李広利は元来ぶらぶらして、まじめな職業に就かない勝手気ままな人物であった。しかし李夫人の兄の為、[[太初]]元年([[紀元前104年]])、武帝は「弐師将軍」に封じ、兵数万を率いて汗血馬を手に入れるため弐師城攻略に向かった。しかし道のりは遥かに遠くて、また多くの高山や大砂漠を越え、諸城を攻略できずに食糧にもことを欠き、兵卒の多くが死んだり逃亡したりした。広利はしかたなく撤兵して、[[敦煌]]に帰って、2年間を過ごす。武帝は激怒し、[[玉門関]]より中に入るようなら斬ると命令を下した。かくして、李広利の率いる軍は敦煌塞に戻った。太初3年、武帝はもう1度大宛を再び攻めることを命じて、精兵6万を派遣して、牛の10万匹、馬の3万匹、ロバ、ラクダ1万余匹は糧秣の軍の物資を運んで、さらに18万の部隊が後方支援に回り、大宛外城に攻め入った。李広利の大軍は、40日余り大宛城を包囲攻撃して、無数の大宛兵を殺した。これに対して恐れをなした大宛は、漢が撤兵することを条件に国王を先頭に投降し、3000数匹の「汗血馬」を漢に捧げた。漢軍は玉門関にまで引き返し時には、過酷な道のりの為に、1万人余の兵と馬1000匹になっていた。李広利は凱旋帰国して、海西侯に封じられた。
[[征和]]三年([[紀元前90年]])、李広利が勅命を受け、[[五原]]に[[匈奴]]討伐に出兵する前夜、丞相の[[劉屈氂]]と李広利は共謀して昌邑王[[劉髆]]を皇太子になるよう画策した。
==参照==
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