「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の版間の差分

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[[画像:Patromonio Mundial.jpg|left|150px|thumb|世界遺産登録記念板(大聖堂前)]]
 
[[2003年]]の第27回[[ユネスコ]]世界遺産委員会パリ会議において、文化遺産に登録される。<!--同じパナマシティ内にある[[カスコ・ビエホ]]が[[1997年]]に文化遺産として登録されたことを受け、パナマ・ビエホ周辺の貴重なプレ・イスパニコ文化(スペイン人到達以前の文化)とあわせて再登録された経緯をもつ。具体的にどんな遺跡があるか不明。チリキ文化やコクレ文化の遺跡があるのか?--> <!--プレ・イスパニコ文化期の具体的遺跡名は現在でも知られていない(調査が進んでいない)。しかし町はプレ・イスパニコ文化期の遺跡の上に存在するのであわせて登録している。チリキやコクレの各プレ・イスパニコ文化はパナマ東部に存在する異なる文化名であり混同している。--><!--混同ではない。「プレ・イスパニコ文化期の具体的遺跡名は現在でも知られていない(調査が進んでいない)。」ならどういう根拠で世界遺産登録の基準になりうるのか?また、そういった状態で影響がないとか文化の範囲ではないような言い方(=混同している)がなぜできるのか?先コロンブス期の人々が現在の国境や地域名を意識しては行動はしないはずだが-->
 
 
パナマ・ビエホの古建築群は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
 
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'''開館時間''' 火曜日から日曜日の午前9時~午後5時(入館は4時まで)
 
'''休館日''' 毎週月曜日、一部祝日など特別に財団が定める日(詳細は要問合せ)
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[[画像:La oficina y El laboratrio.jpg|left|150px]|thumb|財団の事務・研究棟]]文化財の発掘調査・研究と付属博物館での展示業務を主務とする。建築学部門と連携して効果的な建物群の保存を図っている。
部門長は国立パナマ大学歴史学部文化人類学科の考古学担当教授が兼任している。所属職員は発掘調査研究員(アルケオロゴ スペイン語 Arqueólogo)1Arqueólogo)1名と発掘調査ならびに発掘調査をあらゆる方面から支援する[[文化人類学]]の専門研究員(アシステンテ スペイン語 Asistente)2Asistente)2名である。
 
なお、2003年から財団では日本の[[青年海外協力隊|青年海外協力隊員]]を受け入れており、Arqueólogo2Arqueólogo2名体制で埋蔵文化財の発掘調査や文化財保護・保存の活動を行っている。職員の国内外における学会活動も盛んで、欧米を中心とした考古学研究者が年間を通じて多く来所している。
 
== '''主な建物群''' ==
この遺跡の特徴は、主要なものだけでも7ヵ所の宗教施設が見られることにある。
 
 
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'''サン・フランシスコ会修道院'''(コンベント・デ・サン・フランシスコ スペイン語 Convento de San Francisco)
 
女子修道院の南西に位置するフランシスコ会の男子修道院。東に位置する女子修道院と同規模の敷地面積を有し、建物自体は南北に長かったことが当時の地図によって知られている。南北に90m現存する建物は、倒壊した大量の石材と周辺の宅地化によって北端部分の[[遺構]]の確認ができていない。また内部には2ヶ所の中庭があって、高い壁から2階建てだったものと思われる。従来から周辺の急速な宅地化など遺跡の崩壊が認められている上に、建物の南端に建国50周年記念道路があることで、車の振動や排ガスによる現存建物崩壊の危機が関係者から指摘されている。
 
 
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[[画像:Los Genoveses.JPG|left|150px|thumb|ジェノバ人の家(現状)]]16世紀以降、当地での[[黒人]]に特化した人身売買を独占的に行っていた[[ジェノバ]]([[イタリア]])人の屋敷跡。屋敷は石造2階建てで上層階は木造だったと推定される。これら売買から得られる利益は、大商人とヨーロッパの国家との融資契約にも匹敵するほどだったといわれている。建物の東側は現在では陸地化しているが、直接船が着岸できるような低い石壁が建物の沿って現存している。
2007年2月からコロンビア人大学院生と合同で、建物北西側と北側の広範囲で発掘調査を実施している。建物の北西側からは表土直下から植民地時代<!--日本語なら植民地時代と表記されるべき。なにかコロニアル時代と表記しなければならない理由があるなら注にその旨に記されるべき。Welfgang Haberland,1978,Lower Central America in Chronologies New World Archaeology ed.by R.E.Tayler and C.W.Meigan,Academic Pressに掲載された編年表では、16世紀初頭までがLete Polychrome期である。その後がColonial期になるのか?いずれにしろコロニアル期と表記する理由が示されなければならない。-->の土器や金属製品等が多数出土しており、建物の北側は近年宅地化される際に造成された痕跡が認められた。今後はパナマにおけるスペイン人主導の町にあって、異国人であるイタリア人がどのようにして独自の経済活動を発展させたのか各種文献や考古学的研究が待たれる。
 
 
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'''統治府'''(カサス・レアレス スペイン語 Casas Reales)
 
大聖堂の東方、岬の先端部分に位置する独立した小島に設置された一連の建物群。島の周囲には町で唯一の障壁がめぐらされており、陸地とは木製の桟橋でのみ結ばれていたと推定されている。現在は南側の建物礎石(南北20m程度、東西7m)のみが残り、島は陸続きになっている。島内中央部には3棟の石造建物(うち中央のみが木造)が建設され、南側は統治府長官の事務所、中央部分は統治府政庁舎とスペイン王室会計院、北側には裁判所と牢獄があったことが文献史料から分かっている。
 
 
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パナマの町が成立したのは、1513年に若きスペイン人探検家[[バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア]]が現在のパナマ東部ダリエン地域からパナマ地峡を横断し、現在のダリエン県都ラ・パルマがあるサン・ミゲル湾で太平洋を「発見」したことに端を発する。一説によると、その時に砂浜で出会った青年漁師に地名を問うたところ「パナマ」と答えたことからその沿岸地域一帯をスペイン領パナマと命名した。後になってパナマとは現地の言葉で「海産物が豊かに取れる場所」という意味であることが分かっている。その後1519年8月15日にスペイン王室からパナマ地方の総監兼総督に任命されたペドロ・アリアス・デ・アビラ によって、現在のパナマ・ビエホに太平洋沿岸で最初のスペイン植民都市が成立したのである。
16世紀初頭は300人程度のスペイン人のみを抱える都市として始まったが、17世紀後半の海賊襲撃時には人口は1200012,000人にも膨れ上がっていた。当時から友好的な[[インディヘナ]]たちをキリスト教化しながら、また一方ではスペイン人統治に反対する者には黄金輸送などの強制労働などを課した。混血も早い時期から進み、町の人口増加に拍車をかけた。
 
パナマの町は、南米から大量の黄金やボリビアの[[ポトシ銀山]]の銀を海路で、また陸路でカリブ海へ運ぶ中継地点として栄えてきた。また成立初期からバルボアの部下としてパナマにやってきた[[フランシスコ・ピサロ]]は現地インディヘナたちの情報を元にパナマから3艘の船に乗って南米の[[インカ帝国]]を滅亡させるなど、政治的にもより多くの黄金獲得と植民都市成立のために中米や南米諸国に探検家たちを旅立たせる拠点としての役割も担ってきた。
 
== 町の終焉 とその後==
[[画像:メルセー教会.JPG|left|150px|thumb|カスコ・ビエホにある現在のメルセー教会]][[画像:Catedral.JPG|right|150px|thumb|カスコ・ビエホにある現在の大聖堂]]1671年1月28日、町に侵入したイギリスの海賊[[ヘンリー・モーガン]]一味は当時、黄金交易でにぎわっていたパナマの町に火を放って(諸本によると、パナマの総督が逃げ失せるために自ら町に火を放った)、黄金を略奪した。海岸線に建物がひしめき合うように立地するパナマの町は、殆ど防御施設を持たなかったために2月24日まで(現地をみた他の海賊の証言では4週間以上)町全体が火に包まれたとの記録が残っている。その後、町は復興されることなく、2年後に高台で以前から移転計画のあった西に約11km離れたカスコ・ビエホに町機能をすべて移転させた。このときに焼け残った公共建物や宗教施設で使用されていた石材が持ち運びだされ、再利用されている。現在でも見られるものとして、西端に位置するメルセー教会正面の彫刻が施された化粧石、大聖堂の正面壁面の石材などがある。
町の再建が断念された理由としては海賊の襲撃が致命的であったこともある。しかしそれ以前の1621年にパナマを襲った地震の被害が甚大であり、復旧を援助してもらうためにスペイン王室に費用負担を申し出る書類が確認されている。総合的に被害状況が関係者にとって予想以上だったとの見解が数年来、各種論文で指摘されている。一方、発掘調査で確認される植民地時代の<!--コロニアル期は、パナマでの編年上の用語か?それなら注にそのように書かねばならない。日本語なのだから植民地時代とすべき-->建物のレンガ敷き床面が略奪によるもの以上に破損している状況が看過されるからも同様の結果が推察できるようである。
再建が断念されたかつての町は、後に各宗派が新しい町での施設再建のために残存建物から建築部材を切り出す作業に従事するインディヘナたちの居住地となった。危険を伴う作業であったために解体石材の下敷きになる事故が多発した。切り出された部材は満潮時に近くの海岸から筏に乗せられて運ばれた。一連の工事が終了した後は、パナマ建国までのおよそ300年間、省みられる事も無くスペイン人がやってくる前の状態に戻っていった。