「ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス」の版間の差分

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当時スペインと[[ポルトガル]]は、高価な[[香辛料|スパイス]]を産するモルッカ諸島への到達と領有をめぐって競っており、ポルトガル船がモルッカを隅々まで探検するなど一歩先んじていた。一方、スペイン側は[[フェルディナンド・マゼラン]]の航海で到達した島(フィリピンの[[セブ島]]やモルッカの島々)の情報を持っていたため、これらの島をあきらめたくはなかった。
 
ロペス・デ・ビリャロボスは[[1541年]]、[[ヌエバ・エスパーニャ]][[植民地]](現在のメキシコ)の初代[[副王]]([[総督]])、[[アントニオ・デ・メンドーサ]]によって[[東インド諸島]]への航海を指揮するよう任命され、[[1542年]]に4隻の船でメキシコを出航した。彼の艦隊は北太平洋を横断し多くの小島(おそらく[[ハワイ諸島]]も含まれると思われる)を発見した後、まず[[ルソン島]]の南海岸に達し、短い間停泊した。続いて[[サマール島]]、[[レイテ島]]に到達し、彼はスペイン皇太子(後の[[フェリペ2世]])を称えてこの島々に「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas) 」と命名した。これが現在の「'''フィリピン'''」の国名の由来である。
 
敵意を見せる先住民に島を追い出され、飢えと難破に見舞われ、ロペス・デ・ビリャロボスは島への入植と探検をあきらめた。彼らの生き残りはモルッカへの脱出を試みたが、先にモルッカに来ていたポルトガル人との争いに敗れ、彼らは捕虜となった。
 
ロペス・デ・ビリャロボスは<!-- モルッカへの宣教師、[[フランシスコ・ザビエル]]の保護の下、・・・[[:en:Francis Xavier]]によればザビエルのモルッカ宣教は1546年なので年代が合わない? -->1544年にアンボイナ島([[アンボン島]])の牢屋で死んだが、残った乗組員は生き残り脱走してヌエバ・エスパーニャに戻った。
 
なおロペス・デ・ビリャロボスの太平洋艦隊には、のちに[[イエズス会]]に入会して日本布教に従事した宣教師[[コスメ・デ・トーレス]]も同乗していた。
 
== 外部リンク ==
*[http://gutenberg.net.au/ebooks05/0501051h.html ''The First Discovery of Australia and New Guinea'' by George Collingridge, 第4章にロペス・デ・ビリャロボスの記述あり]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:スペイン史の人物|ろへす て ひりやろほす るいろへす]]}}
[[Category:スペイン探検家|ひりやろほするいろへす人物]]
[[Category:大航海時代|ひりやろほするいろへすスペインの探検家]]
[[Category:1544年没|ひりやろほするいろへす大航海時代]]
[[Category:1544年没]]
 
[[de:Ruy López de Villalobos]]