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[[Image:NASA f63.jpg|thumb|250px|Boeing 367-80]]
'''ボーイング367-80'''('''Boeing 367-80''')は、[[ボーイング]]社が[[1954年]]に初飛行させた[[アメリカ合衆国]]初の[[ジェット輸送機]]の試作機である。元々は米空軍向け大型ジェット輸送機として計画されたが、実際には[[空中給油機]]型の[[KC-135 (航空機)|KC-135]]が先に採用され、その後ジェット旅客機[[ボーイング707]]の原型にもなった。愛称はダッシュ・エイティ。
 
== 概略 ==
社内称ボーイング367とは[[B-29]]から派生した[[レシプロ]]輸送機[[C-97]]を指し、本機の367-80というモデルナンバーは本来C-97の改良型に与えられるべきものだが、これは本機が先進的な大型ジェット機であることを隠蔽し、ライバル企業を欺くために付けられたものであった。
 
また当時は、民間にジェット機を導入するのは時期尚早であり、レシプロ機の次は[[ターボプロップ]]機の時代が来ると考えた航空会社が少なくなく、そのため大型爆撃機で圧倒的に豊富な実績を誇りながらも、民生機の分野では他社に大きく水を開けられていたボーイングが、ジェット機の優位性をアピールするため、一発逆転を狙って見切り発車的に着手された。
 
[[B-52 (爆撃機)|B-52]]の進空と同じ[[1952年]]に設計開始し、開発費1600万USドルは総て自社資金で賄われた([[B-47]]などの爆撃機受注によって得られた利益による)。[[1954年]]7月15日に初飛行すると、予想通り空軍が強い興味を示し、当時需要が切迫していた空中給油機版のKC-135としていきなり大量発注を受けた。
 
安全性への懸念に対する懐疑的な雰囲気の払拭にも成功し、旅客機型707の開発が着手されるが、空軍からKC-135の納期遅延を懸念され製造ラインを民間機と併用することが認められなかったこと、エンジンの[[軍事機密]]指定解除が遅れたこと(([[プラット・アンド・ホイットニー|P&W]] JT3 は J57 の民生版)、先に実用化していた世界初のジェット旅客機[[デハビランド DH.106 コメット]] Mk.1 が未曽有の連続事故に見舞われたことなどから、707の就航までにはかなりの年月を要した。その間に3-3横6シートを実現するため、胴体直径を367-80より6インチ(15cm)拡大されている。
 
== エピソード ==
367-80は、[[1955年]]に[[シアトル]]郊外ワシントン湖で開催されたゴールドカップ水上機レースの場で、初めて一般向けにデモ飛行した。当初ただ低空飛行(フライ・パス)するだけの予定飛行プランだったが、20万人の大観衆と招待客の各航空会社幹部の目前で、テストパイロットのアルヴィン・ジョンストンは独断で、予定外の[[バレルロール (マニューバ)|バレルロール]]を高度500フィート(150m)で敢行した。
 
完成したばかりの大型ジェット機が頭上を超低空で背面飛行したため一同驚嘆したが、ボーイング社のビル・アレン社長(当時)は、心配と恐怖の余り失禁したとも伝えられる。この伝説は今でも生きており、[[1994年]]6月に[[ボーイング777]]の初飛行を担当したチーフテストパイロットのジョン・キャッシュマンは、飛行前に社長から受けた最後の指示が「ロールするな」であったと語っている。
 
ライバルの[[マクドネル・ダグラス|ダグラス]]も、[[DC-8]]で緩降下中に民間機として初めて音速突破してみせるなど、対抗意識を燃やした。尚、コメットの試作機も[[1953年]]の[[ファーンボロ]][[航空ショー]]低空90度バンクターンを決めており、低翼面加重当時の旅客機の高い機動性と共に、演ずる方も見る方も命懸けだった時代を想起させる。
 
本機は[[2003年]][[8月27日]]にシアトルから[[ワシントンD.C.]]へ最後の自力フェリー飛行を行った後、[[スミソニアン航空宇宙博物館]]別館に永久展示されている。
 
== スペック ==