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== 略歴 ==
[[山梨県]][[北巨摩郡]]穂足村大豆生田(現・[[北杜市]][[須玉町]])生まれ。1903年(明治36年)に江草村の本で国定教科書販売を営む小尾から分した家で、4男として生まれる。母は津金村の漢方医飯島家の娘。小尾家は農家で、父は国定教科書販売を営んでいたが1912年(大正元年に破産したため一家で[[甲府市]]へ移り[[碁会所]]をはじめるが、母は幼い十三らを連れて善光寺町へ別居し、小作業や[[養蚕]]で生計を立てる。1923年(大正1212に[[甲府商業高校]]に入学するが、翌年には退学して長野鉄道局教習所電信科へ入所。職を転々とし[[農民組合]]運動にも関わり共産党の影響下にあった全農支部青年部書記にもなっている。母の支援で上京し、1939昭和9年には朝鮮で元山商業総督府逓信局へ勤務。在京中正則英語学校の夜間部で学び師とな員免許を得が、警察の身辺調査で就職の道は絶たれていた
 
1939年(昭和14年)には朝鮮で元山商業学校教師となる。昭和17年には新京中央放送局に勤め、翌1943年(昭和18年には森永製菓満州本社の経理課長となり、る。この頃に教師時代の回想を小説「登攀」として描く。「登攀」は「内鮮一体」の皇民化政策の時代風潮のもと、内地から赴任した主人公の北原邦夫が献身的愛を注ぐ朝鮮人生徒の安原寿善との関係が描かれている。小尾の友人である安倍一郎のすすめで昭和19年2月に京城帝大の同人誌『国民文学』に掲載され、同年1212月には日本でも『文藝春秋』に掲載される。「登攀」は[[岩倉政治]]から賞賛され、岩倉は[[横光利一]]や[[川端康成]]らと芥川賞候補に推薦する。国家思想を意識た作品であることから評価され1944上半期[[八木義徳]]「劉廣副」とともに第19回[[芥川賞]]を受賞した。
 
その後は「雑巾先生」などを発表。1945年(昭和20年には「登攀」や「雑巾先生」のほか「形見」「浪花節」などを含む単行本『雑巾先生』を出版。初版、再版がそれぞれ五千部ずつ刊行されているが現存するものは少なく、現在は小尾自身が持ち帰った一冊が[[山梨県立文学館]]に所蔵されている。戦後は1950年に甲府商業高校教師となっている著書は、1965年には書き下ろしで芥川賞作家シリーズ『新世界』を発表。「登攀」と同じく教師時代ほか回想を描く自伝小説で没後出版「登攀」『ひテーマをより深化させ主人公津金朝鮮人生徒崔聖亀との関係が描かれておっ子、終戦直後父』新京の状況描かれた風俗小説的な趣もあるのみ
 
著作は、没後出版に『ひとりっ子の父』があるのみであるが、未発表作品に『燈火』『長春』『怨恨』『赤軍進駐の周辺』『しつけ糸』『青い林檎』『青き大麦畑』などがあるほか、未題の自伝長編もある。
 
==著書==
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== 参考文献 ==
*白倉一由「小尾十三の世界」『甲府市史研究第9号(1991)
*白倉一由「小尾十三の小説の展開」『山梨県史研究第10号(平成14年)
 
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