「御親兵」の版間の差分

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明治3年([[1870年]])12月、[[山県有朋]]は当時鹿児島藩([[薩摩藩]])の政務にあたっていた[[西郷隆盛]]に対して、天皇と中央政府を守るために薩摩藩・長州藩・[[土佐藩]]の献兵からなる親兵を組織することを提案した。これは当時中央政府に属していなかった西郷を薩摩藩の親兵入京を口実に政府内に入れることで政府の強化を図る側面もあった。ただ、この構想には複雑な政治的背景があった。[[木戸孝允]]はこの御親兵の力を背景に[[廃藩置県]]やそれを支える[[官僚]]・[[租税]]制度の整備などの中央集権化政策を一気に実施しようとした。だが、[[大久保利通]]は木戸や[[大隈重信]]が進める急進的な政策には批判的で、自己の出身基盤である薩摩藩の親兵入京と西郷の入閣はこの流れを変える足がかりになると考えたのである。
 
これを受けて西郷は明治4年1月4日に[[鹿児島市|鹿児島]]を出発して[[東京]]に向かったが、その際に出された「西郷吉之助意見書」には冗官の整理や[[府藩県三治制]]の維持、[[鉄道]]建設などへの批判など、木戸・大隈路線への批判、大久保路線の支持とも受け取れる言辞も存在した。だが、途中で大久保・木戸と合流して両者の意見を聞くうちに西郷は政争の深刻化を危惧して、政治的な問題については新政府官僚への薩摩藩などの倒幕功労者の起用の提言に留め、専ら新制軍隊の編成に力を注ぐことになった。
 
2月13日、入京した西郷を中心として正式に「御親兵」として発足した。