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'''石川 高信'''(いしかわ たかのぶ、[[1495年]]([[明応]]4年) - [[1581年]]([[天正]]9年)?)は、[[南部氏]]の部将。[[南部政康]]の子で[[南部信直]]・[[石川政信]]の父。
 
== 生涯 ==
智勇を兼ね備えた名将で、兄の[[南部安信]]から絶大な信任を受け、[[弘前城|石川城]]にて[[津軽地方]]の政治を任された。安信の後を継いだ甥・[[南部晴政]]の時代になってもその信任は変わらず、重用された。[[1569年]]には南部領である[[鹿角郡]]に侵攻してきた[[安東愛季]]の軍勢を破り、[[1572年]]には津軽で起こった反乱を鎮圧するという大功を立てている。
 
高信没年はっきりしていない。一説では[[1571年]]5月5日に独立を目論んだ[[津軽為信]]の奇襲を受けて石川城で自刃したとも、このときには死なずに生き延びて、1581年に世を去ったとも言われているのである。ただし、どちらにせよ[[南部氏]]の津軽支配はこの高信の才能によるところが大きかったため、の死後、南部氏は津軽支配にまで力が及ばなくなり、津軽為信によって津軽を奪われることになってしまったのである。
 
== 高信の謎 ==
=== 安信の弟か、晴政の弟か ===
高信は安信の弟、晴政の叔父とする説が定説化している。しかし、南部氏の系図の中で最も古い系図は、[[寛永]]18年([[1641年]])に幕府へ上呈された『寛永諸家系図伝』所収の南部系図である。その後に作成された南部氏系図は、いずれも高信を晴政の弟としている。
 
時代が下って[[寛政]]11年([[1799年]])に南部氏が幕府へ上呈した『寛政重修諸家譜』所収の南部系図では、高信は晴政の父安信の弟としている。この流れを受けて作られた『南部史要』『祐清私記』『聞老遺事』『南部根元記』などが広く一般に普及したために、晴政弟説が流行したと考えられる。
 
=== 没年 ===
高信は没年がはっきりしていない。民間記録である『永禄日記』は、元亀2年([[1571年]])5月5日に[[津軽為信]]の奇襲を受けて石川城で自刃したと伝えている。しかし、南部側の資料ではこの時には死なずに生き延びて、天正9年([[1581年]])に世を去ったとも伝えているのである。
 
[[Category:南部氏|いしかわたかのふ]]