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このような中で現状の幕府のあり方を変えるために西洋の議会制度を日本に取り入れて幕府あるいは日本国家の改革を行う必要があるとする提言が出されるようになった。[[西周助|西周]]・[[加藤弘之]]・[[津田真道]]・[[大給乗謨]]と言った幕府関係者だけではなく、江戸幕府と[[薩長]]の軍事対立を避ける立場から[[横井小楠]]・[[坂本竜馬]]などの幕府外の人物からも主張された。[[慶応の改革]]を通じた幕権強化論を志向していた[[征夷大将軍|将軍]][[徳川慶喜]]が[[大政奉還]]を決意した背景には公議政体論による国家改革の主導権を[[徳川将軍家]]が執る事を狙ったとされている。
 
[[戊辰戦争]]で勝利して[[明治政府]]を樹立した薩長勢力も、旧幕府勢力を倒したものの、実際には新政府が擁した[[朝廷]]に「恭順」した諸藩の協力を得ての勝利であり、彼らの支持を維持しなければ政権の存続は不可能であった。このため、自己の政策の正当性を「'''公議輿論'''」に求めることになった。[[五箇条の御誓文]]の最初に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」として公論(公議輿論)を全面に押し出している。以後、この路線は[[政体書]]の編纂やこれに基づく[[議政官]]の設置、[[公議所]]・[[集議院]]などの開催、官吏の公選などや諸藩の[[藩政改革]]につながってゆく。
 
だが、[[廃藩置県]]によって藩が廃止されて[[中央集権]]が進むと、次第に公議輿論は形骸化し始め、特に[[征韓論政変]]後には[[大久保利通]]を中心とする[[有司専制]]が行われるようになると、公議輿論は名ばかりとなった。これに対して[[木戸孝允]]は中央集権と公議輿論は矛盾しないとする見地から[[立憲政体の詔書]]を作成して[[立憲政治]]に通じた両立を目指し、[[板垣退助]]は[[自由民権運動]]を率いて公議輿論を反映するための議会制度導入を唱えるようになった。こうした動きが、後の[[大日本帝国憲法]]制定と続く[[帝国議会]]開設に繋がることになった。