「蒲池統安」の版間の差分

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<br />1578年の[[耳川の戦い]]に、父の鑑盛、兄の鎮漣と共に三千の兵を従えて[[大友氏]]方の武将として出陣。すでに家督を継いでいた兄の鎮漣は、直属の兵二千余を引き連れて柳川に帰城。戦いは、[[島津氏]]の「釣り野伏戦法」により大友氏の大敗北となるが、その中で、父の鑑盛と共に統安は、島津氏の本営への突入を何度も果敢に試み、父と共に壮烈な討死をする(あるいはこの時は筑後に戻り、[[柳川の戦い]]で討ち死にしたともいわれる)。
<br>統安の長子の[[蒲池鎮貞]](塩塚鎮貞)は統安の塩塚の家督を継ぎ、[[龍造寺隆信]]が蒲池鎮漣を肥前で謀殺し、筑後に侵攻した時は、塩塚城を守り討死する。
<br>統安の兄の鎮漣の妻の[[玉鶴姫]]は、龍造寺隆信の娘だったが、夫と一族を冷酷にも殺戮した父親を許さず、生家に戻ることを拒み、統安の子の鎮貞の守る塩塚城の近くで、従う家臣や持女108人と共に自害する。同地には現在、「史跡・蒲池鎮漣夫人他百八人殉難之地」(通称・塩塚百八人塚)の石碑が立っている。
<br>次子は、祖父鑑盛と父統安を弔うため僧籍に入り、[[応誉]]と名のり瀬高の来迎寺の僧侶となり、後に[[柳川藩]]祖[[立花宗茂]]の正室[[立花ぎん千代|誾千代]]の[[菩提寺]]の[[良清寺]]を開き、子孫は柳川藩主の[[立花氏]]の[[家老]]格の家となる。ちなみに歌手の[[松田聖子]](蒲池法子)の生家は、この子孫である。
 
== 関連 ==