「赤眉軍」の版間の差分

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赤眉軍は[[天鳳]]5年([[18年]])に莒(現在の[[山東省]][[莒県]])で蜂起した。指導者は瑯琊出身の[[樊崇]]であり。泰山の山岳部を拠点に政府軍に対抗し、数年後には数万人の軍勢を擁した。構成員の殆どが農民出身であり、多くは文盲であることから口頭での伝令が組織内の連絡手段となっていた。組織の最高を三老、次を従事、卒史などの名称を使用したが、大部分は漢代の郷官の名称を援用していた。
 
赤眉軍の勢力拡大に対抗すべく、[[地皇]]3年([[22年]])、王莽は[[王匡]]、[[廉丹]]に焼く10万の兵を与え赤眉軍討伐を行うが失敗、この時点で赤眉軍の勢力は10万を越え、青州、徐州、兗州、豫州の各地に影響力を有すようになった。23年、[[更始帝|劉玄]]が[[]]に即位し[[長安]]に入った。赤眉軍は当初は[[]]への帰順も考慮したが、結局両者に戦端が開かれる。[[25年]]、赤眉軍は[[樊崇]]と[[徐宣]]が関中に侵攻し、漢宗室の[[劉盆子]]を皇帝に擁立、徐宣を丞相に、文字の読めた樊崇は御史大夫となった。また更始軍内部での権力闘争もあり、王匡が赤眉軍に投降すると赤眉軍は長安に入城し[[更始帝]]を殺害した。
 
しかし長安入城の時期の赤眉軍はその規模の維持が限界に達しており、各地に食料を求め移動する状態であり、また大雪に遭い甚大な消耗に見舞われた。また[[光武帝|劉秀]]が派遣した[[鄧禹]]の軍勢に敗れると赤眉軍は関中放棄を決定、[[27年]]に崤(現在の[[河南省]][[洛寧]])で再び劉秀軍に破れ樊崇は投降、その後殺害されることで赤眉軍は消滅した。
 
==関連項目==