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'''佐野 宗綱'''(さの むねつな、[[1556年]]([[弘治 (日本)|弘治]]2年) - [[1583年]]([[天正]]11年)?)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[佐野氏]]の第17代当主で、[[佐野昌綱]]の嫡男。
 
父の死後、[[上杉謙信]]に度々攻められるが、これを堅城・[[唐沢山城]]と自身の知略をもって何度も撃退している。また配下に鉄砲の供出を義務付けるなど、当時の関東では遅れていた鉄砲の普及を推奨するなど
はじめ[[後北条氏|北条氏]]と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟を破棄して[[常陸国]]の[[佐竹氏]]と手を結び、北条氏と戦った。このため[[1581年]]、[[北条氏照]]に攻められたが、これは撃退している。しかし1583年([[1585年]]とも言われている)、北条氏に与する[[長尾顕長]]と彦間で戦って敗れ、戦死してしまった。
革新的な政策も施している。
 
また、早くから中央政権にも連絡をとっており、[[1576年]]6月10日には、
[[織田信長]]の推挙によって但馬守に任命され、その礼金を献じている。
 
はじめ[[後北条氏|北条氏]]と同盟を結んでいたが、北条氏との同盟を破棄して[[常陸国]]の[[佐竹氏]]と手を結び、北条氏と戦った。このため[[1581年]]、[[北条氏照]]に攻められたが、これは佐竹氏の援軍の助けもあり、撃退に成功している。しかし1583年([[1585年]]とも言われている)、北条氏に与する[[長尾顕長]]と彦間で戦って敗れ、戦死してしまった
しかし1583年([[1585年]]とも言われている)、北条氏に与する[[長尾顕長]]と彦間で戦った際に、敵将の挑発に乗り、単騎で突出したところを鉄砲で撃たれ、落馬したところを討ち取られてしまった。それまで長尾勢との戦いでは遅れをとった事がなく、自身の武勇を過信し、敵を侮った為とされる。
 
宗綱の死により、佐野氏は一旦断絶したが、[[小田原征伐]]で弟(叔父とも)の[[佐野房綱]]が功を挙げたため、再興されている。