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ドン・'''ディエゴ・デ・バルガス'''([[1643年]]〜[[1704年]]、Don '''Diego de Vargas''', フルネームはDiego de Vargas Zapata y Luján Ponce de León y Contreras)は、[[ニュースペイン]]領の[[サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコ]](今日の[[アメリカ合衆国]][[ニューメキシコ州]])の[[スペイン領知事]]である。名目のみの任期が[[1690年]]〜[[1692年]]、実効的な任期が[[1692年]]〜[[1696年]]と[[1703年]]〜[[1704年]]である。
 
彼は、1680年のプエブロの反乱の後の1692年の領土のレコンキスタ(失地回復)を導いたことで最も有名である。このレコンキスタは、 毎年[[サンタフェ (ニューメキシコ州)|サンタフェ]]市で行われる[[フィエスタス・デ・サンタフェ]] で記念されている。
 
==プエブロの反乱と無血レコンキスタ==
 
1680年8月10日、ニューメキシコ北部のさまざまなプエブロ集落の[[プエブロ]]集落の人々は、スペイン人入植者に対する蜂起を起こした。彼らはサンタフェの町を囲い込んで、8月21日にスペイン人たちを後退させ追放した。者たちは南のエル・パソ・デル・ノルテ(現在の[[シウダー・フアレス]])へ逃げ、その後12年間避難民としてそこに留まった。
 
1690年、ディエゴ・デ・バルガスはニューメキシコ知事総督に任命され、サンタフェの再占領の任務と[[スペイン]]の領土の再植民地化を指名さ命じられた。1692年7月、デ・バルガスと小部隊はサンタフェへ戻った。デ・バルガスらは夜明け前に町を囲んで、[[スペイン王]]に忠誠を誓って[[キリスト教]]信仰に戻るのならば、寛大な処置を約束するとして、プエブロ・インディアンたちに降伏するよう呼びかけた。プエブロのリーダーたちはサンタフェに集い、デ・バルガスと会い、平和に同意し、そして1692年9月14日、デ・バルガスは正式な失地の正式な行為を宣言した。
 
デ・バルガスのニューメキシコの失地回復は、領土が最まったく武力を行使せずに領土を取り戻されたので、しばしば「無血レコンキスタ」と呼ばれている。しかし、1693年はじめにデ・バルガスが開拓者たちを戻すためにメキシコに戻った時、プエブロの人々は再びサンタフェを占領した。この時、 デ・バルガスは武力でもって領土を取り戻し、数百のプエブロの戦士を殺して後に処刑した。第2次プエブロの反乱は1696年に試みられ、結果として5人の宣教師と21人のスペイン人が死んだが、事実上阻まれた。その後数年、戦争は両者の間で続いたが、世紀の終わりまでスペイン領植民地化は、本質的には堅いものであった。
 
==関連項目==
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[[en:Diego de Vargas]]
 
[[Category{{DEFAULTSORT:ニューメキシコ州|はるかす ていえこ]]}}
[[Category:1643年生|てはるかす ていえこニューメキシコ州]]
[[Category:17041643没|てはるかす ていえこ]]
[[Category:1704年没]]
[[Category:ニューメキシコ総督|てはるかす ていえこ]]