「ウプサラ大聖堂」の版間の差分

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最初の中世時代の大聖堂は、バルチック・[[国際ゴシック]]様式で、頑丈な煉瓦の壁が採用されていた。小さなバロック様式の塔群は第三の塔や、交差廊上の小塔群を含め高い(フランスに触発された)尖塔に取って代わられた。内部の天井と壁は[[ネオ・ゴシック様式]]の装飾がなされ、[[マルティン・ルター]]のような描写がいくつか見られるものの、大聖堂の中世の遺産を再構築しようとはされなかった。Zettervallによって加えられた外側構造の[[セメント]]部分は、数十年後に取り払われた。
 
中世に、教会を除く全てのウプサラの家々は、木造か煉瓦でできた平屋か二階建てからなっていた。大聖堂は今日よりも一層巨大に見えていただろうと思われる。興味深いことに、[[宗教改革]]までは、教会はウプサラ周辺の住民の信仰の中心地というわけではなかった。教会は、教会法によって公的サービスのため取っておかれたのである。ウプサラの主要教会で教区教会は、聖ペテロ教会、聖母教会、そして[[フランチェスコ会]]派[[修道院]]と、"Bondekyrkan"(農民教会、の意味)であった。聖ペテロ農民教会以外の3つの教会は、ウプサラの商業区Fyrisånの東側に存在したが、宗教改革の間に相次いで壊された。
 
大聖堂は、多くのスウェーデン王・王妃の戴冠式が行われた場所である。主に、中世から17世紀後半まで、戴冠式が執り行われた。その後1872年より、[[ストックホルム大聖堂]]が公式の戴冠式の場所となった([[オスカル2世 (スウェーデン王)|オスカル2世]]が戴冠した1872年までの間、スウェーデン王は戴冠式を行わない空白の時期だった)。