「法の支配」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
甚平 (会話 | 投稿記録)
m 参考文献が中川八洋の<s>ぞっき本</s>通俗本などというのはギャグとしか思えないので、2007年5月4日 (金) 09:43 (UTC)まで戻す
1行目:
{{観点}}
{{Law}}
[['''法の支配]]'''(ほうのしはい, Rule of Law)とは、何人も法(Law, [[コモン・ロー]])以外のものには支配されず、コモン・ローに違背した制定法(立法、[[人定法]])は無効である、また全ての国家権力は正義の法に拘束される、という英米系法学の基本的原理(憲法原理)である。権力者による恣意的な支配(「人による支配」)を排斥し、国民ならびに国会を含む全ての統治権力を“法”で拘束することによって、自由と権利と財産と名誉のほか慣習や道徳を擁護することを目的とする。
国家権力者による恣意的な支配(人の支配)を排斥し、全ての権力を法で拘束することによって、国民の権利・自由を保障することを目的とする。
 
== 概要歴史 ==
[[法の支配]]の下では、[[君主主権]]も[[国民主権]]も排除される。“主権”は国内統治の概念としては認められない。国民主権は、国民誰もが(その集合において)主権者であるとする「人による政治」を志向する教理(ドグマ)だから、「法による支配」とは対極的な思想である。この人定法を排除する論理は、換言すれば、「幾世紀もの歳月を経た古来からの慣習を破壊したり変革するような法律は認めない」「思いつきや理論はいかに議会での手続き(デュー・プロセス)を経た立法であっても、法律としては認めない」ということである。
法の支配(ほうのしはい)は[[16世紀]]から[[17世紀]]にかけて[[イギリス]]の[[エドワード・コーク]]によって確立された法思想である。
 
[[A・V・ダイシー]]は[[1885年]]、『イギリス憲法研究序説』の中で法の支配を理論化し、以下の三つの原則を示した。
== 概要 ==
#専断的権力の支配を排した、慣習法([[コモン・ロー]])の支配。(人の支配の否定)
[[法の支配]](ほうのしはい)は、[[マグナ・カルタ]]以来の法の歴史を踏まえて、16世紀から17世紀にかけて、主に[[エドワード・コーク]]卿ほか英国の裁判官たちによって確立された憲法原理である。コークの『英国法提要』『判例集』はその不朽のテキストである。
#制定された法律は国民にも政府にも平等に適用されること。(特別裁判所の禁止)
#裁判所による判例の集積が、正しい法となる。
 
== 内容 ==
[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]の『イギリス法釈義』は、このコークの法思想を十九世紀に継ぐべく、英国法曹界に「[[法の支配]]」を再度拳拳服膺するよう呼びかける動機をもって書かれた英国法の体系的なコメンタリーである。
現在、法の支配の内容は以下の4つと考えられている。
 
#'''権利の保障''' : 財産権や自由権をはじめとする諸権利について、法律より優越的な地位にあることを確認する。
「[[法の支配]]」を言い表すのに「国王といえども神と法の下にある」という[[ブラクトン]]の法諺がよく引用される。国王であれ、議会であれ、行政府の官僚であれ、国民であれ、「あらゆるものを自由に決定できる権利=[[主権]]」など、国内政治のどこにも存在しない、という思想である。
#'''憲法の最高法規性''' : 法律・政令・省令・条例・規則など各種法規範の中で、憲法は最高の位置を占めるものであり、それに反する全ての法規範は効力を持たない。
 
#'''司法権重視''' : [[法の支配]]においては、立法権・行政権などの国家権力に対する抑制手段として、裁判所は極めて重要な役割を果たす。
このコークの「[[法の支配]]」を実際の明文憲法の起草にあたって根幹に据えたのが、[[アレグサンダー・ハミルトン]]らによって起草された[[アメリカ合衆国憲法|米国憲法]]である。米国が発明した[[違憲立法審査権]]も、[[エドワード・コーク|コーク]]の『判例集』にヒントを得て、この「[[法の支配]]」から発想された憲法原理の一つである。
#'''適正手続の保障''' : 法内容の適正のみならず、手続きの公正さもまた要求される。この適正手続きの保証(due process of law)は英米法の基本概念の一つであり、[[法の支配]]の中核的概念でもある。
 
== 日本国主義と法における法関係支配の現われ ==
日本国憲法においては、権利の保障は第3章で、憲法の最高法規性は第10章で、司法権重視は76条・81条で、適正手続の保障は31条で、それぞれ見てとることができる。
米国は1787年、明文憲法を起草するに当たり、憲法はコモン・ローと看做しうるものでなくてはならないと考え、立法・行政・司法および国民などの全ての統治権力は[[法の支配]]を受けるべきとする原理を重視した。これが米国法における[[立憲主義]]である。[[法の支配]]を明文憲法によって実現するとの考えでもある。[[立憲主義]]は、当然ながら、国民主権であれ君主主権であれ、憲法の上位にある主権の存在を認めないから、米国憲法には主権概念がない。[[法の支配]]を守ることと、主権の存在は両立しない。
ただ、日本国憲法施行の当初から、[[GHQ]]による[[検閲]]や[[農地改革]]等により権利の保障は大きく歪められ、また、最高裁の下す違憲判決の少なさから、日本においては法の支配は十分に機能していないとする見解もある。
 
== 法治主義との関係 ==
[[法の支配]]て非なる概念として[[19世紀後半]][[ドイツで発]]を中心に開され[[法治主義]](rechtsstaat)”がある。<br>
大陸法系の法治主義は、法によって権力を制限しようとする点では法の支配と同じである。<br>
 
ドイツ法の[[法治主義]]は、法律によって権力を制限しようとする点で一見「[[法の支配]]」同じにみえる。の相違点とかし、[[法治主義]]は、'''議会が作った法律であれば、その内容の適正を問わず、「悪法も法なり」とする'''ということが挙げられ、このような考え方を特に'''形式的法治主義'''と呼ぶ。他方、「[[法の支配]]」の下においては、'''法律の内容は適正でなければならず、「悪法も法なり」とはしない'''。英米法系においては、権力者による恣意的な統治('''人による政治''')は、たとえそれが「法律(立法)」の手続を経てなされるとしても無効であると考える。「[[法の支配]]」の対置語は「'''人による政治'''」である。<br>
ただし形式的法治主義では'''国民の権利・自由が法律の根拠という名の下に制限される'''危険性が強いため、現在では法律の内容の正当性が要求される'''実質的法治主義'''の考え方が主流となっている。この場合の実質的法治主義は、法の支配とほぼ同義と言ってよい。
 
「[[法の支配]]」は、この世には、人が従わねばならない「法(Law, のり・みち・ことわり・正義)」がある、人は無謬ではなく誤り多いという認識を源としているともいえる。この「法」は、年月を経た伝統や慣習([[不文の法|不文法]])の中に現れる。それゆえ、正義によって裏付けられた伝統や慣習([[不文の法|不文法]])を「法律(人定法)」でもって変更してはならないとの考えが「[[法の支配]]」である。
 
一方、[[法治主義]]の考えは、伝統や慣習よりも、「人の作った法律(人定法)」が優先するという考えであり、「[[法の支配]]」の概念と根本が異なっている。[[法治主義]]の背景には、[[合理主義|近代合理主義]]に基づく「人間理性」の絶対視がある。「[[法の支配]]」における「法」は、「人間の浅はかな考えを超えた道理はある」との、中世ゲルマンの思想を淵源としている。
 
==日本における「[[法の支配]]」の教育==
日本の大学では、「[[法の支配]]」の解説を、A・V・ダイシーの『イギリス憲法研究序説』(1885年)に求める通弊がある。だが、ダイシーはこの書で、人定法主義を正当化している。具体的には、十九世紀的な「国会主権」の方を優先的に展開しているから、明らかに「[[法の支配]]」を否定しているのが本心だとも言いうる。
 
「[[法の支配]]」に関して解説を求めるならば、あくまでも[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]の著『イギリス法釈義』に依拠すべきである。立場が定かでないダイシーを避ける方が学問的に賢明であろう。
 
なお、日本人による「[[法の支配]]」の入門的解説としては、[[伊藤正己]]の『法の支配』(有斐閣、1954年)と[[中川八洋]]の「法の支配は復権できるか」(『保守主義の哲学』第2章、PHP研究所、2004年)などが適切だろう。
 
== 日本における「[[法の支配]]」の理解 ==
日本の法体系は、大陸法系を基本としている。そのため、英米法系の憲法原理である「[[法の支配]]」とは相容れない。しかしながら、日本の法体系にも「[[法の支配]]」が存在しているという説を唱えるものがいる。そのような説においては、[[法の支配]]の内容は以下の4つとされている。芦部信喜『憲法』[新版補訂版]、岩波書店、14頁。
 
#'''人権の保障''' : 憲法は人権の保障を目的としている。
#'''憲法の最高法規性''' : 法律・政令・省令・条例・規則など各種法規範の中で、憲法は最高の位置を占めるものであり、それに反する全ての法規範は効力を持たない。
#'''司法権重視''' : [[法の支配]]においては、立法権・行政権などの国家権力に対する抑制手段として、裁判所は極めて重要な役割を果たす。
#'''適正手続の保障''' : 法内容の適正のみならず、手続きの公正さもまた要求される。この適正手続きの保証(due process of law)は英米法の基本概念の一つであり、[[法の支配]]の中核的概念でもある。
 
上記は、英米法における「[[法の支配]]」とは次の点で決定的に異なるものである。
 
#'''人権の保障''' : 憲法は、自由と権利と財産と名誉のほか慣習や道徳を擁護することを目的とする。人権は、慣習や道徳を破壊する為排除される。
#'''憲法の最高法規性''' : 成文の法令以前に、「法」が最高法規である。「法」に反した憲法・法令は排除される。
#'''司法権重視''' : この点は同じである。
#'''適正手続の保障''' : この点は同じである。
 
日本でいう「[[法の支配]]」は、憲法が「法」を破ることが出来る、また憲法に基づく法令が「法」を破ることができるものである。あるいは、理論を「法」としているため、理論に基づいた社会の改造を肯定する。これらは、英米法における「[[法の支配]]」が排除している「'''人の支配'''」に他ならない。
 
== 日本国憲法と「[[法の支配]]」 ==
[[日本国憲法]]は、日本の慣習を無視あるいは否定して制定されたため、そもそも「コモン・ロー」の概念と相容れない。日本国憲法に「[[法の支配]]」がある、ない、という議論はそもそも成り立たない。あえていえば、「[[法の支配]]」に反している、ということになる。
 
[[日本国憲法]]では、[[国民主権]]、[[国会]]は国権の最高機関と位置付けられている。そのため、国会において憲法に反しないあらゆる法律が立法可能である。このような状態では、慣習が尊重される保障はなく、事実、慣習を否定したり積極的に改変する法律が数多く立法されている。このような立法を決して認めない考えが、[[法の支配]]の憲法原理だから、日本国憲法は「[[法の支配]]」に背馳しているといいうる。憲法原理「[[法の支配]]」に反する憲法において、果たして、[[立憲主義]]が成立するかといえば、それは不可能であろう。
 
== 関連事項 ==
*[[ブラクトン]]
*[[エドワード・コーク]]
*[[ウィリアム・ブラックストン|ブラックストーン]]
*[[A・V・ダイシー]]
*[[アレグサンダー・ハミルトン]]
*[[エドマンド・バーク]]
*[[マグナ・カルタ]]
*[[コモン・ロー]]
*[[不文法]]
*[[立憲主義]]
*[[アメリカ合衆国憲法|米国憲法]]
*[[違憲立法審査権]]
*[[法治主義]]
 
== 文献外部リンク ==
*[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/39472/ 「法の支配」と「法律の支配」]
*[[伊藤正己]]『法の支配』有斐閣、1954年
*伊藤正己『英米法における法の支配』日本評論社、1950年
*[[田中和夫 (法学者)]]『英米法概説〔再訂版〕』有斐閣、1981年
*中川八洋『保守主義の哲学』PHP研究所、2004年
*中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』中央公論新社、2002年
*中川八洋『悠仁<天皇>と皇室典範』、清流出版、2007年
 
 
100 ⟶ 59行目:
[[vi:Nhà nước pháp quyền]]
[[zh:法治]]
 
{{Featured_article}}
 
{{Law-stub|ほうのしはい}}