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'''グスターフ・ジョン・ラムステッド'''(Gustaf John Ramstedt, [[1873年]] - [[1950年]])は、[[フィンランド]]の東洋語学者で、[[アルタイ比較言語学]]の権威。幼少時から種々の言語に関心を覚え、大学卒業後は、語学の教師をしてい学問上フィンランド労作は、初代駐日[[マリ語|チェレミス語公使]]の実地踏査の結果発表に始まる。その学統を継ぐ学者としては、[[ニルス・ポッペ]](N. Poppe)、レセネン(M. Räsänen)らがある務めた
 
== 人物・来歴 ==
[[1920年]][[2月12日]]、フィンランド初代公使として東京に着任した。当時彼はヘルシンキ大学教授であった。日本滞在中は外交官としての活動のかたわら、言語学者としても研究を行い、[[白鳥庫吉]]の紹介により[[東京帝国大学]]で招待講師として教壇に立っている。このときの受講者の一人に[[柳田国男]]がいた。ラムステッドは自らの研究を元に、[[日本語]]の[[アルタイ諸語]]起源説を唱えた。
幼少時から種々の言語に関心を覚え、大学卒業後は、語学の教師をしていたが、学問上の労作は、[[マリ語|チェレミス語]]の実地踏査の結果を発表に始まる。その学統を継ぐ学者としては、[[ニルス・ポッペ]](N. Poppe)、レセネン(M. Räsänen)らがある。
 
[[1920年]][[2月12日]]、ラムステッドはフィンランド初代公使として東京に着任した。当時彼はヘルシンキ大学教授であった。日本滞在中は外交官としての活動のかたわら、言語学者としても研究を行い、[[白鳥庫吉]]の紹介により[[東京帝国大学]]で招待講師として教壇に立っている。このときの受講者の一人に[[柳田国男]]がいた。ラムステッドは自らの研究を元に、[[日本語]]の[[アルタイ諸語]]起源説を唱えた。
 
また、[[1926年]]12月に行った講演には、[[宮沢賢治]]が聴衆として参加していた。賢治はラムステッドの講演内容に感銘を受け、講演後に会話を交わし、後に自著(『[[春と修羅]]』『[[注文の多い料理店]]』)を贈呈している<ref>賢治が贈った2冊の著書がフィンランドに現存し、そのうち『注文の多い料理店』にはラムステッドによる書き込みが残されていることが確認されている(出典:佐藤泰平「フィンランド初代駐日公使・ラムステットに賢治が贈った初版本」、『宮沢賢治研究Annual Vol.2』1992年、宮沢賢治学会イーハトーブセンター)。</ref>。
 
このように、文化学術面にも影響を与えたラムステッドは、1929年まで日本に滞在した。帰国後は1941年までヘルシンキ大学の教授を務め、さらに1944年まで客員教授として教壇に立った。
 
ラムステッドはまた、[[エスペラント]]の普及にも尽力し、フィンランドのエスペラント協会会長を務めた。
 
==著書==
ラムステッドは[[エスペラント]]の普及にも尽力し、フィンランドのエスペラント協会会長を務めた。
*『フィンランド初代公使滞日見聞録』(邦訳は坂井玲子訳、日本フィンランド協会、1987年)
 
==外部リンク==
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[[category:フィンランドの言語学者|らむすてつと]]
[[category:外交官|らむすてつと くすたふ]]
[[Category:1873年生|らむすてつと くすたふ]]
[[Category:1950年没|らむすてつと くすたふ]]