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{{武士/子|養子:''[[蒔田広城]]''}}
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'''蒔田 広孝'''(まいた ひろたか)は、[[江戸時代]]後期の大名。[[備中国|備中]][[浅尾藩]]主。維新後は[[子爵]]
 
嘉永2年(1849年)2月4日、幕府御書院番の蒔田広袢の長男として生まれる。[[安政]]4年([[1857年]])5月に[[旗本]]([[交代寄合]] 7700石) 蒔田広運の養子となり、安政5年([[1858年]])8月に家督を継いだ。[[文久]]3年([[1863年]])11月、江戸市中の警護で功績を挙げたため、石高を1万石に高直しされることとなり、大名となった。[[元治]]元年([[1864年]])の[[蛤御門の変]]においては[[京都見廻役]]として[[長州藩]]撃退に活躍するなど、佐幕派として行動している
 
[[文久]]3年([[1863年]])11月、江戸市中警護の功により、高直しによって1万石となって大名となった。[[元治]]元年([[1864年]])の[[蛤御門の変]]においては[[京都見廻役]]として[[長州藩]]撃退に活躍するなど、佐幕派として行動している。
しかし、このときの恨みにより[[慶応]]2年([[1866年]])4月12日、第二[[奇兵隊]]を脱走した[[立石孫一郎]]ら、長州浪士100余名により、浅尾陣屋は倉敷代官所と共に襲撃され灰燼に帰した([[浅尾騒動]])。慶応4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府に与して[[岡山藩]]と行動を共にしている。[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で[[藩知事]]となり、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で免官され、東京へ移った。
 
しかし、このときの恨みにより[[慶応]]2年([[1866年]])4月12日、第二[[奇兵隊]]を脱走した[[立石孫一郎]]ら、長州浪士100余名により、浅尾陣屋は倉敷代官所と共に襲撃され灰燼に帰した([[浅尾騒動]])。慶応4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]では新政府に与して[[岡山藩]]と行動を共にしている。[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で[[藩知事]]となり、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で免官され、東京へ移った
明治30年([[1897年]])、第3代[[浅尾村]]長となり、明治41年([[1908年]])5月には初代[[総社町]]長となる。大正7年(1918年)3月24日に死去。享年70。
 
[[明治]]2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]で[[藩知事]]となり、明治4年([[1871年]])7月の[[廃藩置県]]で免官され、東京へ移った。明治17年([[1884年]])、子爵。明治30年([[1897年]])、第3代[[浅尾村]]長となり、明治41年([[1908年]])5月には初代[[総社町]]長となる。大正7年(1918年)3月24日に死去。享年70。
 
{{先代次代|[[浅尾藩|蒔田氏(浅尾領10代)当主]]|1858 - 1863|[[蒔田広運]]|-}}
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