「スイープトウショウ」の版間の差分

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古馬となった2005年はオープン特別の都大路ステークスから始動。実績上位とあって1番人気に支持され、56kgというハンデを背負いながら出走メンバー最速タイの上がりタイムを叩き出すも5着に敗れる。このレースでマイル適正に疑問符がついてしまったのか、続いて出走した[[安田記念]]では10番人気の低評価。しかし[[アサクサデンエン]]の2着に善戦。同月に開かれた[[宝塚記念]]では、前走がフロック視され11番人気と更に評価を落としていた。しかし前年の[[年度代表馬]]・[[ゼンノロブロイ]]や後に[[有馬記念]]を勝利する[[ハーツクライ]]などを蹴散らして[[1966年]]の[[エイトクラウン]]以来39年ぶり史上2頭目となる牝馬による春のグランプリを獲得した。また、馬主のトウショウ産業も[[1977年]]の名馬・[[トウショウボーイ]]以来の宝塚記念制覇であった。
 
毎日王冠をステップに臨んだ天皇賞(秋)は[[ヘヴンリーロマンス]]の5着に敗れたが、牝馬限定のエリザベス女王杯では同年の秋華賞優勝馬[[エアメサイア]]などを抑え優勝。GI3勝目を挙げた。また、この年の[[JRA賞]]で最優秀4歳以上牝馬に選出された。
 
=== 5歳・6歳時 ===
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その後ヴィクトリアマイルへ出走。カワカミプリンセスに次ぐ単勝4.0倍の2番人気に支持されたが、自慢の末脚を生かすことが出来ず、9着に敗れた。
 
次走は宝塚記念を予定していたが厩舎で暴れ右脚を怪我し、出走を回避した。その後は厩舎に滞在して治療に専念し秋は連覇を目指す京都大賞典から始動をする予定であったが、調教を嫌がり本格的な調教が出来ずこのような状態では競馬に出せないとして出走を回避した。このままの状況が続けば引退の可能性もあると調教師の鶴留が言及していたが、続いての[[スワンステークス]]では大きなトラブルもなく無事に出走することができた。馬体重が前走と比べて18キロも増えていたことなども影響したか4着どまりであったが、ここまでの出走経緯を考えればまずまずの結果となった。その後は4年連続出走となる[[第32回エリザベス女王杯]]に出走。前走に続いて後方待機ではなく先行策をとり直線に向くと内から伸びてきたものの、3着に敗れた。レース後にはこのレースを最後に現役を引退することが発表され[[11月23日]]に競走馬登録を抹消された。
 
[[2008年]]からは[[繁殖牝馬]]になる予定である。
 
== 競走成績 ==
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|style="text-align: center;" colspan="3"|年月日
|style="text-align: center; white-space: nowrap;"|[[競馬場]]
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== 特徴 ==
2~3歳時は出遅れ癖のおかげでなかなか勝ちきれない面を見せていた。[[古馬]]になってからは出遅れ癖は緩和されたものの[[調教]]やレース前の馬場入りを極端に嫌がる面は直らず、調教を開始しようにも数十分立ち止まって全く動こうとしないことも珍しくなかった。2005年の[[天皇賞|天皇賞(秋)]]では本場馬入場時に鞍上の[[池添謙一]]を乗せると全く動こうとしなくなったために池添を下ろし、返し馬を中止して係員がスタート地点まで引っ張っていくという珍事もあった。2007年秋頃には頑固さに更に磨きがかかり、調教を拒否し続けたために京都大賞典に出走できなかった。
 
池添自身も勝利騎手インタビューにて「スイープトウショウは能力は素晴らしいんですが、ちょっと性格に問題が…」と苦笑いで語っている。発走前には他の馬に騎乗する騎手に「ご迷惑をおかけします」と前もって言っていたこともある。また、引退レース後に周囲からスイープトウショウの産駒に乗りたいか?」と質問されると「いや、どうかな」と苦笑いで答えている。
 
== 血統表 ==