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'''野利仁栄'''(やりじんえい、?-[[1042年]])は、[[西夏]]初代皇帝景宗、[[李元昊]]に近侍した政治家・学者であり、景宗の皇后である野利氏の一族である。正史である[[宋史]]によれば、景宗の命により、西夏語を記述する為の[[西夏文字]]を作成した。西夏文字は[[宋史]]にも「[[隷書体|隷書]]に似るが[[楷書体|楷書]]に近い書体で、字画数がすこぶる多い」と書かれている様に、漢字を参考にした可能性はあるが、字形は複雑である。[[西夏文字]]は[[1036年]](大慶元年)または[[1038年]](大慶三年)に約6000文字が公布された。但し、[[西夏文字]]作成は野利仁栄の独力で行われたのではなく、原案を作成したのは野利遇乞であり仁栄は遇乞の原案を改良したのだとの見方もある([http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F%E6%96%87 Wikipedia中文版の西夏文字]では「野利遇乞創造的」と書かれている)。死後富平侯に列せられ、[[1162年]](天盛十四年)には仁宗から広恵王の爵位を追贈された。
 
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