「極付幡随長兵衛」の版間の差分

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=== 序幕 ===
==== 村山座木戸前の場 ====
江戸の芝居小屋村山座では新狂言「公平法門諍」が大評判で多くの人が詰めかけている。旗本奴の白柄組の侍が通行人の親子に難癖をつけているのを町奴唐犬権兵衛が仲裁に入り親子の難儀を救う。(今日あまり上演されない。)
 
==== 舞台喧嘩の場 ====
狂言も佳境に入ったときに酒に酔った白柄組らが狼藉を働いて舞台を台無しにする。そこへ町奴の親分、[[幡随院長兵衛|幡随長兵衛]]が止めに入り白柄組を叩きだす。折しも桟敷で舞台を見ていた白柄組の棟梁頭領[[水野成之|水野十郎左衛門]]は、長兵衛に遺恨を持つようになる。
 
=== 第二幕 ===
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==== 湯殿殺しの場 ====
浴衣一つになった長兵衛は家臣たちや水野に襲われる'''。「いかにも命は差し上げましょう。兄弟分や子分の者が止めるを聞かず唯一人、向かいに応じて山の手へ流れる水も遡る水野の屋敷へでてきたは、元より命は捨てる覚悟、百年生きるも水子で死ぬも、持って生まれたその身の定業、卑怯未練に人手を借りずこなたが初手からくれろと言やあ、名に負う幕府のお旗本八千石の知行取り、相手に取って不足はねえから、綺麗に命を上げまする。殺されるのを合点で来るのはこれまで町奴で、男を売った長兵衛が命惜しむと言われては、末代までの名折れゆえ、熨斗を付けて進ぜるから、度胸の据わったこの胸をすっぱりと突かっせえ。」'''との名セリフを吐いた長兵衛は、見事に水野の槍を胸に受け絶命する。とどめを刺うとしたとき、こへ長兵衛の子分が棺桶を持ってきたとの知らせ。その潔さに流石の水野も「殺すには惜しきものだなあ。」と感心し、とどめを刺
 
==== 水道端の場 ====
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== 概略 ==
17世紀中期に実際に起こった事件をもとにしている。天下太平となっが続いて将軍の親衛隊である旗本堕落して素行が悪くなり、旗本奴と呼ばれる集団を作って江戸の町で乱暴を働いていた。町奴と呼ばれていた侠客は町人と連帯感を持ち、旗本奴しばしば争乱を起こしていた。長兵衛と水野の事件もその一つで、しばしば芝居に取り上げられていた。特に四代目[[鶴屋南北]]の「浮世柄比翼稲妻」(鈴が森)はその代表作である。浪曲や講談、さらに映画にもなり、[[坂本九]]主演「九ちゃん刀を抜いて」、[[阪東妻三郎]]・[[市川右太衛門]]主演「大江戸五人男」などがある。
 
活歴物を編み出した[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]のために作られたので史実に忠実である。[[1881年]](明治14年)にオリジナルの作品が上演されたが、10年後に弟子の[[河竹新七 (3代目)|三代目河竹新七]]らの協力で大幅に改訂したのが評判となり、現在はこの改訂版が上演される。
 
序幕の村山座の場では歌舞伎では珍しく劇中劇の形をとっている。また客席から長兵衛が現れるなど娯楽性に富んだ一幕である。
 
初演時、殺害される長兵衛のうめき声が初演時に真に迫っていて好評であったが、これは團十郎が、[[1868年]](明治元年)に養父河原崎権之助が強盗に殺害された時、養父の瀕死の声を聞いた経験によるものである。また、團十郎は殺害前の立ち回りを竹本の浄瑠璃を廃して柔術をありのままに演じる写実的な演出に変え現代にも受け継がれている。
 
[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]、[[市川中車 (7代目)|七代目市川中車]]、[[松本幸四郎 (7代目)|七代目松本幸四郎]]、[[松本白鸚 (初代)|初代松本白鸚]]らが長兵衛を得意とした。また初代[[萬屋錦之介]]が晩年に歌舞伎座で演じている(水野は[[片岡仁左衛門 (15代目)|十五代目片岡仁左衛門]]=当時片岡孝夫)。現在では[[松本幸四郎 (8代目)|八代目松本幸四郎]]、[[中村吉右衛門 (2代目)|二代目中村吉右衛門]]の兄弟が得意としている。
水野は六代目尾上菊五郎、二代目市川左團次、三代目実川延若、二代目尾上松緑が持ち役とした。
 
名セリフも多い。上記のセリフのほか、序幕の「名が幡随院の長兵衛でも仏になるにゃアまだ早え。」とか二幕目の「天秤棒を肩にかけ」、三幕目の「時効も丁度木の芽時」など、黙阿弥独自のリズミカルなセリフが有名で、聞きどころとなっている。
== 初演時の配役 ==
*幡随長兵衛・・・九代目市川團十郎