「三遊亭遊輔」の版間の差分
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高座で[[泥棒]]噺をよく演じていたため、「泥棒遊輔」と呼ばれた。
[[神楽町]]の料理店「末よし」で生まれ育つ。[[三遊亭圓遊#初代|初代三遊亭圓遊]]に入門して、太遊から遊輔を名乗る。
[[1899年]][[8月]]に[[大阪]]へ赴き、[[桂文枝|2代目桂文枝]](後の[[桂文左衛門]])が率いる[[桂派]]に入るが、すぐに脱退して[[東京]]の圓遊門下に戻った。
[[1901年]]には再び大阪に移って[[三友派]]に加入するが、ここにも長居せずにすぐに東京に帰った。一時は[[名古屋]]に居を構えていたこともあり、東西の[[寄席]]に出演していた。
しかし帰京後に病気を患い、高座に出演しなくなった。明治40年代に亡くなったと思われる。
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