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[[1922年]](大正11)に[[日本共産党]]入党。[[1923年]][[6月5日]]の[[第一次共産党検挙事件]]に際してソ連へ密航。[[1924年]](大正13)帰国。[[1928年]](昭和3)[[2月20日]]の[[第16回衆議院議員総選挙|第1回の男子普通選挙]]では、労働農民党候補として北海道1区から立候補も落選。同年[[3月15日]]の [[三・一五事件]](共産党関係者一斉弾圧)では自宅療養、ほどなく警察の監視下を脱出し、同年6月にソ連へ密航。[[1936年]]2月に[[野坂参三]]と連名で「日本の共産主義者への手紙」を発表。
 
[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]の[[大粛清]]が吹き荒れる1937年(昭和12)11月2日、ソ連の秘密警察[[内務人民委員部]](NKVD)によって突然逮捕され、1939年(昭和14)3月10日処刑された。
 
ソ連崩壊の1992年、ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン関係の機密文章が公開され、野坂参三による山本懸蔵らを密告した手紙が発見され、山本の逮捕が、野坂参三による密告に基づいて行なわれた事が明らかなった。発見された資料をもとに、『週刊文春』誌上に小林俊一・加藤昭らによる連載「野坂参三疑惑レポート「同士を売った密告の手紙」」が掲載される(翌年単行本化)。1992年(平成4)12月、日本共産党は野坂を除名処分とした。
 
なお[[加藤哲郎 (学者)|加藤哲郎]]の調査によれば、山本自身も、同時期にソ連に亡命していた数名の日本人、勝野金政、根本辰(ねもと・とき)、国崎定洞(くにざき・ていどう)、伊藤政之助らをスパイと疑い、ソ連秘密警察やコミンテルン国際統制委員会へ密告ないし告発するなどしていたという(外部リンク・加藤哲郎参照)。また[[和田春樹]]の調査により、野坂による山本密告とほぼ同時期に、山本自身も野坂を密告する準備を進めていた事が判明している。
 
しかし外国人であろうと無制限に拡大されていたスターリンの大粛清から生き延びようと思えば密告以外に彼らが助かる道は無かったのもまた事実である。
 
==著作==