「古今亭志ん生 (初代)」の版間の差分

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[[1835年]]以前に古今亭(ないし古金亭)志ん生と改名した。一説には[[三遊亭圓生 (2代目)|初代立花屋圓蔵]]と圓生の名跡でを争って敗れたため失意の結果旅に出たとされる。
 
[[人情噺|人情咄]]を得意とした、得意演目には「[[お富与三郎]]」「[[小猿七之助]]」等がありいずれも劇化され[[市川團十郎 (8代目)|8代目市川團十郎]]が演じ評判になった。「九州吹戻し」は[[鈴々舎馬風]]から2両2文で譲り受けたといわれ、そのうまさは誰も真似できなかった、その為後に[[三遊亭圓朝]]は弟子一切演じるのを禁じた。
 
[[俳句]]も良くし「送り火や飛びつく螽追ひながら」の句を残している。
 
顔にはあざがあり、しかも片足が悪くかごに乗って[[寄席]]通いをしたと伝わっている。