「徳川重好」の版間の差分

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[[1788年]]5月、[[御庭番]]高橋恒成は、清水家に関して「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の長尾幸兵衛が清水家の財政を私物化していると指摘している。また、『よしの冊子』では、長尾は3万両を田沼意次に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。
 
[[1795年]]7月8日、重好は51歳で死去。嗣子がなかったため、清水徳川家は一時空位になる。その際、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。御三卿の領地・家屋敷の収公は、その創立者である将軍[[徳川吉宗]]の意向に背くものであった。そのため、同年7月、[[徳川治済]]は老中[[松平信明 (三河吉田藩主)|松平信明]]らに強く抗議している。治済は七男亀之助(後の[[松平義居]])による清水家相続を考えていたようである。なおその後、11代将軍[[徳川家斉]]の五男[[徳川敦之助|敦之助]]が継承している。
 
== 経歴 ==
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*[[1795年]](寛政7)7月8日、薨去。享年51。法名:俊徳院體空撫心
 
{{先代次代|[[清水徳川家|清水徳川家当主初代]]|1758~17951758 - 1795|-|[[徳川敦之助|敦之助]]}}
 
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