「チャタル・ヒュユク」の版間の差分

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== 研究史 ==
チャタル・ヒュユクは、[[1958年]]に発見され、[[1961年|1961]] - [[1965年]]にかけてジェームス・メラート (James Mellaart)によって[[発掘調査]]されて、世界的に知られるようになった。メラートは、200ヶ所近い建物を調査し、チャタル・ヒュユクが少なくとも0,I - VIA,VIB - Xの13の層とさらに下層があることを確認した。最下層に至るまではさらに7m掘らなければならないと推定された。以後残念ながら以後トルコ政府によって調査が禁止され、遺跡は[[1993年]]9月に[[ケンブリッジ大学|ケンブリッジ大]]の[[イアン・ホダー]] (Ian Hodder)<ref>[[ルイス・ビンフォード]] (Lewis Binford)の提唱した客観的な統計処理と自然科学的[[交差年代決定法|年代測定法]]に加えて文化変化の過程を解明するために[[社会進化論|文化進化論]]を考古学に持ち込んだ「[[ニュー・アーケオロジー]]」「[[プロセス考古学]]」に対して、客観性を保とうとしても現代社会に生きる考古学者は現代の文化的バイアスから逃れられないから、あくまでもその遺跡や文化の脈絡で考古資料の意味や位置づけを解釈しなけれならない、という立場の「[[ポスト・プロセス考古学]]」の主唱者として知られる。しばしば、「プロセス考古学」と「ポスト・プロセス考古学」の対峙は、文化進化論と[[フランツ・ボアズ|ボアズ]]学派の対立に見立てられる。[http://www.25nk.com/tienomoto/me1/archives/ct13/002.html], [http://en.wikipedia.org/wiki/Ian_Hodder Ian Hodder]</ref>によって調査されるまで放置されることになった。ホダーの調査は、他に先駆けた[[コーリン・レンフリュー]] (Colin Renfrew)<ref>ケンブリッジ大学のカリスマ的な考古学者で、西アジアやギリシャの遺跡の調査成果から、「初期国家単位」 (Early State Module)の概念や黒曜石をはじめとする交易の研究から「離心減少モデル」とそれをいくつかのパターンに分けてグラフ化したフォールオフ・モデルを提唱したこと、インド・ヨーロッパ語族は、アナトリアが「原郷」であって、その言語のひろがりは、[[農業]]の普及と移住の結果であるという説を唱えたことなどで知られる。cf.[http://en.wikipedia.org/wiki/Colin_Renfrew Colin Renfrew]</ref>の研究手法を取り入れた野心的なものであった。考古科学の手法に加えてチャタル・ヒュユクの壁画が表現しているシンボリズムについて[[心理学]]者や芸術家たちに解釈をするよう従事させた。チャタル・ヒュユクはメラートによってその複雑性が記録されたが真の意味での「町」、「[[都市]]」、「文明」というよりも巨大な村落として記述された。
 
== チャタル・ヒュユクの建築遺構 ==
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