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'''赤眉軍'''(せきびぐん)は[[中国]]の[[新|新朝]]末に発生した農民反乱軍の名称。眉を赤く染め政府軍と区別したことから赤眉軍と称される。
 
[[天鳳]]1年([[14年]])、[[山東省|山東]]の[[琅邪郡]]で[[呂母]]なる老女の息子が小罪を問われて県令に殺害された。呂母はこの県令を怨み、息子の仇を討つことを謀る。もとより資産があったので資産を用い、若年者らに酒をつけツケで与え、衣服を貸し与えた。数年してその資産が尽きた時、若年者らはつけツケを払わんおうし、呂母は県令へ復讐を告げる。若年者らは仇討ちに加担し、ついには徒党が数千もの人員を集め県令到り、叛対して反乱を起こす。呂母は県令を殺害した後に死去するが、一旦集まった軍勢者達は法が過酷であり賦税が重いことを理由に解散せず、[[天鳳]]5年([[18年]])に莒(現在の[[山東省]][[莒県]])で蜂起した、指導者を瑯琊出身の[[樊崇]]を指導者とする反乱軍に合流した。泰山の山岳部を拠点に政府軍に対抗し、数年後には数万人の軍勢を擁したするに至る。構成員の殆どが農民出身であり、多くは文盲であることから口頭での伝令が組織内の連絡手段となっていた。組織の最高を三老、次を従事、卒史などの名称を使用したが、大部分は漢代の郷官の名称を援用していた。
 
赤眉軍の勢力拡大に対抗すべく、[[地皇]]3年([[22年]])、[[王莽]]は[[王匡 (新)|王匡]]、[[廉丹]]に約10万の兵を与え赤眉軍討伐を行うが失敗、この時点で赤眉軍の勢力は10万を越え、青州、徐州、兗州、豫州の各地に影響力を有すようになっ及ぼしてい。[[更始 (漢)|更始]]([[23年]])、[[更始帝|劉玄]]が[[更始帝]]に即位し[[長安]]に入った。赤眉軍は一端、度は[[更始帝]]へ帰順したが、列侯に上げら叙された上層部も封地が定まらず、その兵は離反し始めたため、更始帝は袂を分かつ対立。[[建武 (漢)|建武]]1年([[25年]])、赤眉軍は[[樊崇]]と[[徐宣]]が[[関中]]に侵攻し、漢宗室の[[劉盆子]]を皇帝に擁立、文字の読めた徐宣を[[丞相]]に、樊崇は[[御史大夫]]となった。また更始帝の軍内部で権力闘争あり、王匡が赤眉軍に投降すると赤眉軍は長安に入城し、また投降した[[更始帝]]を遂には殺害した。
 
しかし長安入城を果たした期の点で赤眉軍はその規模の維持が限界に達しており、各地に食料を求め移動する状態で況にった。この移動の最中[[に向いし]]への行軍時に大雪に遭い甚大な消耗に見舞われ、甚大な被害を被ったために進路を東に変える。その後、長安に戻ると、苦戦する赤眉軍は[[関中]]の放棄を決めた。[[建武 (漢)|建武]]3年([[27年]])に崤(現在の[[河南省]][[洛寧]])で[[光武帝]]の将軍[[馮異]]の軍に破れ、宜陽で待ち構えていた光武帝本軍に樊崇らは投降する。その後、樊崇らは再度挙兵を謀るも露見し殺害され赤眉軍は消滅した。
 
==関連項目==