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火扇 (会話 | 投稿記録)
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[[王莽]]の統治の末年に、王鳳は、同郷の王匡と共に、地元の争議の調停役を務めていたが、衆に推されて2人で数百人の民衆の長となった。そこへ、[[馬武]]、[[王常 (後漢)|王常]]、[[成丹]]も加わり、離郷聚を攻撃した後、緑林山(荊州江夏郡当陽県)に立て篭もった。その軍勢は、数ヶ月の間に7,8千人に膨らんだという。[[地皇]]2年(21年)、荊州牧が2万の軍勢を率いて緑林軍を討伐しにきたが、王匡、王鳳は雲杜でこれを迎撃し、殲滅した。これをきっかけに、軍は5万人を超えたと称し、官軍も手を出せなくなった。
 
しかし、地皇3年(22年)に、疫病が発生して緑林軍は半数を喪失する大打撃を受け、緑林を離れて分散することになった。王常、成丹、[[張ゴウ|張卬]]は南郡へ入って「下江軍」と号し、王匡、王鳳、馬武、[[朱鮪]]は、南陽郡に入って「新市軍」と号した。同年7月、「平林軍」の[[陳牧]]、[[廖湛]]が新市軍に合流し、さらに11月には[[劉エン (春陵伯升)|劉縯]]、[[劉秀|光武帝]]兄弟の「舂陵軍」とも合流する。新軍との戦いの最中に下江軍とも合流し、翌地皇4年(23年)正月、連合軍は泚水の戦いで新の前隊大夫[[甄阜]]、屬正[[梁丘賜]]を討ち取った。
 
=== 更始政権での活動 ===
その後、連合軍においては、劉縯と平林軍出身の[[劉玄 (後漢)|劉玄]]とのいずれを天子として擁立するかが、諸将の間で議論となった。この際に、南陽の士大夫(舂陵の諸将など)と王常は劉縯、王鳳らその他の諸将は劉玄を推している。結局劉縯は、分裂を避けるために、劉玄にその地位を譲った。こうして[[更始]]元年(23年)2月、劉玄は'''更始帝'''として即位し、王鳳は成国上公に封じられた。