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これまでに、[[ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団]]や[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]、[[フィルハーモニア管弦楽団]]、[[ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団]]、[[スイス・ロマンド管弦楽団]]、[[ボストン交響楽団]]、[[クリーヴランド管弦楽団]]、[[ロサンジェルス・フィルハーモニック]]、[[シカゴ交響楽団]]などの、世界各地の主要なオーケストラを指揮している。
 
[[現代音楽|20世紀音楽]]の熱心な擁護者として、[[サンフランシスコ]]時代に[[ジョン・クーリッジ・アダムズ|ジョン・アダムズ]]や[[スティーヴ・ライヒ]]らの作品を初演・録音した。オペラ指揮者としても頻繁に活躍、[[1971年]]にサンタフェ歌劇場でデビューして以来、[[1975年]]にヒューストン大歌劇場、[[1976年]]に[[ロイヤル・オペラ・ハウス|コヴェント・ガーデン王立歌劇場]]、[[1979年]]に[[バイロイト音楽祭]]に出演。[[1980年]]には《[[ニーベルングの指環]]》4部作をサンフランシスコ歌劇場で上演した。近年は、[[オペラ・バスティーユ|バスティーユ歌劇場]]で《薔薇の騎士》を、[[メトロポリタン歌劇場]]で《[[フィガロの結婚]]》を上演したほか、アムステルダムで《[[フィデリオ]]》、《[[トロイアの人々]]》、《[[ウェルテル]]》、《[[蝶々夫人]]》、《[[カーチャ・カバノヴァー]]》、《[[マクロプーロス事件]]》、《[[ピーター・グライムズ]]》を制作した。そのほかにも最近では、ジュネーヴ歌劇場で《[[ボリス・ゴドゥノフ (オペラ)|ボリス・ゴドゥノフ]]》を、ザルツブルク音楽祭で《[[フィガロの結婚]]》を、サンタフェ歌劇場で《[[ベアトリスとベネディクト]]》を上演。シドニーでは、1995年より演奏会形式で《指環》4部作を指揮し、[[2000年|2000年度]][[シドニー・オリンピック]]芸術祭の一部として上演された《[[神々の黄昏 (楽劇)|神々の黄昏]]》において、このプロジェクトを頂点へと至らしめた。
 
[[2002年]]3月に、[[1999年]]より就任してきたオランダ歌劇場首席指揮者の地位を[[2004年]]に去ると宣告。辞任の理由として、家庭人として幼い2人の子供との時間を大切にしたいとの旨が述べられた。しかしながら「トロウ''Trouw'' 」紙のインタビューに応じて、オランダ歌劇場支配人のピエール・オーディ(Pierre Audi)と《[[ローエングリン]]》や《蝶々夫人》の理想的な上演をめぐって不和が生じたことに触れ、「方向性において人間性や感情を」読み違えたと述べた。[[2004年]]から香港フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督兼首席指揮者に就任。