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==広島での大三郎==
[[享保]]2年([[1717年]])12月12日に元服し、享保6年([[1721年]])9月19日には藩主[[浅野吉長|浅野安芸守善吉長]]の命により浅野氏一族の[[浅野忠喬|浅野帯刀忠喬]](広島藩[[家老]]・知行5000石)の娘と結婚した。なお姉の[[
なお広島藩内においては旗奉行次席・番頭・奏者頭などの重職を歴任したが、「翁草」などには品行がよくなかったという記事が残る。三田村鳶魚の「横から見た赤穂義士」などでは大三郎が梅毒になって鼻欠けになっただとか、1500石の知行を減俸されたなどと書いているが、これらは俗説に過ぎず、確かな根拠はない。それにそんなものに番頭の地位はまわってはこないだろう。
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