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{{サッカー選手
'''ジョアン・ディクソン・カルバリオ'''('''João Dickson Carvalho'''
[[セルジオ越後]]の勧誘を受け1975年に日本の[[藤和不動産サッカー部]](現在の[[湘南ベルマーレ]])に加入。セルジオは程なくしてクラブを離れ、その後クラブ名も「フジタ工業サッカー部」へと代わるが、エースストライカーとして[[アデマール・ペレイラ・マリーニョ|マリーニョ]]や[[セイハン比嘉]]らのブラジル人選手と共に1977、1979、1981年に[[日本サッカーリーグ]]制覇に導き、黄金時代を築いた。カルバリオ自身も1977、1978年には得点王に輝いた。日本リーグ通算117得点は歴代2位。1977年の23得点はシーズン最多得点記録である。
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引退後は[[奥寺康彦]]の主催したサッカースクールのコーチを務めたが、その後ブラジルへ帰国。コーチングライセンスを取得し兄が会長を務める[[カンピオナート・パウリスタ|サンパウロ州リーグ2部]](Campeonato Paulista da Segunda divisão、4部リーグに相当)の[[バレットスEC]]のディレクターを務めている。
== 所属
* [[グアラニFC]] (ブラジル)
* [[バレットスEC]] (ブラジル)
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* アラグリア(ブラジル)
* [[リオプレットEC]](ブラジル)
*1975年-1982年 [[藤和不動産サッカー部|藤和不動産
*1983年-1986年 [[全日空横浜クラブ|
== 個人タイトル ==
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