「山村工作隊」の版間の差分

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'''山村工作隊'''(さんそんこうさくたい)とは、[[1950年]]代、「[[日本共産党]]臨時中央指導部(「[[所感派]]」の流れをくんだ非正規の集団)」の指揮のもとに[[武装闘争]]を志向した[[非公然組織]]である。[[毛沢東]]の[[中国共産党]]が[[農村]]を拠点としているのに倣ったものだが、実効性はほとんどなかったという。
 
== 歴史 ==
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各地で列車を爆破したり、交番の焼き打ちや、[[警察官]]へのテロを敢行するなどの武装闘争が展開された。そして、共産党の武装闘争を取り締まるため[[破壊活動防止法]]が[[1952年]]7月に制定・施行された。直接的な[[火炎瓶]]闘争は1952年夏頃から下火になったが、軍事方針は続き、農村部での活動が継続された。
 
この運動方針は世論からも批判を浴び、[[第25回衆議院議員総選挙|1952年10月の総選挙]]では全員が落選し敗退。[[1955年]]7月の[[日本共産党第6回全国協議会|第6回全国協議会]](六全協)で軍事方針は否定された。
 
現在、共産党は五全協の方針は一部の極左冒険主義者([[所感派]])による誤りで党本体([[国際派 (日本共産党)|国際派]])とは関係ないとしている。
 
== 球根栽培法 ==
[[火炎瓶]]闘争など共産党の武装方針について示した秘密出版物。正しくは『内外評論』という機関誌であるが、『球根栽培法』は、これを擬装するための書名である。[[ガリ版]]で複数回発刊された。『戦後日本思想大系6 』6(『革命の思想』)([[筑摩書房]]、1969年)所収。
 
== 参加者 ==
共産党の方針に従い、学業を擲ち山村工作隊に参加した学生もいた。参加者は日本共産党第6回全国協議会の方針転換に深い絶望を味わったといわれる。また、これに参加した者の回想は、一部新左翼機関誌などに掲載されてもいる([[柴田翔]]の小説『されど われらが日々――〔1964年〕の背景に山村工作隊、日本共産党第6回全国協議会がある)
 
[[由井誓]]の死後刊行された『由井誓遺稿回想』(由井誓」(海風追悼集刊行会〔新制作、1987年11月)によると、山村工作隊は、五全協以降、投降した国際派学生に対する懲罰再教育という面もあった様である{{要出典}}<!---ノート参照-->。そのように考えると、独立遊撃隊、中核自衛隊等のY組織(軍事委員会)とは指令系統が違ったと考えられる。
 
5全協以降山村工作隊は約束された補給も無く、ほとんど放置され、自然消滅した。
脇田憲一著朝鮮戦争と吹田枚方事件-戦後史の空白を埋める』(明石書店、2004/3/30)月)に詳しくその実像が記載されている。
 
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