「織田長次 (長兵衛尉)」の版間の差分

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長次は関ヶ原で戦死し家が断絶したこともあって、確認されている信長の息子達の中では最も情報が少なく謎の人物となっている。
 
* 諱字から、豊臣秀次に付属されていた可能性が考えられる。[[大道寺直次]]、[[田中吉次]]など、秀次に仕えていた武将には「~次」の諱を持つ者が多く、まず確実であろう。秀次から一字拝領したとすれば天正13年([[1585年]])から文禄4年([[15941595年]])の間に元服したということになる。元服時期は天正末期から文禄年間と思われる。逆算して生年は天正年間の前半、天正2年から10年の間であると比定される。
 
* 最終経歴が秀吉の馬廻すなわち親衛隊将校であることから、それ以前にも主君に近侍する[[小姓]]組などに在籍していたと思われる。比定された元服時期と諱が秀次からの一字拝領である可能性が高いことから考えて、前歴は秀次の小姓であったと思われる。