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センゲとは[[チベット語]]で「獅子」、リンチンとはチベット語で「宝」を意味する。[[内モンゴル自治区|内モンゴル]]の[[ホルチン左翼後旗]]の人。[[ボルジギン氏]]で、『蒙古世系』によると[[チンギス・ハーン]]の次弟[[ジョチ・カサル]]の26代の子孫に当たるという。
[[1825年]]、[[ホルチン]]郡王を継ぐ。[[1853年]]、[[天津]]南郊で[[太平天国]]の[[北伐 (太平天国)|北伐]]軍を撃破した。[[1855年]]、太平天国の[[李開芳]]軍を全滅させ、李開芳を捕えた。同年には親王に封ぜられている。
*[[1857年]]、[[アロー戦争]]で天津防衛の[[欽差大臣]]に任命された。▼
*[[1860年]]、天津が陥落し、彼が率いるモンゴル騎兵軍は[[通州]]に撤退した。通州の八里橋で英仏連合軍に惨敗し、モンゴル軍を全滅させた。これにより英仏連合軍は[[北京]]に侵攻し、[[円明園]]が破壊された。センゲリンチンは爵位を失ったが、欽差大臣の職には留まった。アロー戦争が終結すると爵位を回復した。▼
*同年9月、[[直隷省]]・[[山東省]]一帯で[[捻軍]]が蜂起すると掃討に当たり、山東省・[[河南省]]・[[安徽省]]を転戦した。▼
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*[[1865年]]、山東省曹州荷沢県の[[高楼寨の戦い]]で[[頼文光]]率いる捻軍に包囲され、全軍が壊滅し、センゲリンチンは戦死した。▼
[[Category:清朝の人物|せんけりんちん]]▼
[[Category:内モンゴルの人物|せんけりんちん]]▼
センゲリンチンの死後、清朝の軍権は[[満州族]]・モンゴル族の[[八旗]]から[[湘軍]]・[[淮軍]]のもとに帰したのである。
[[Category:ボルジギン氏|せんけりんちん]]▼
[[Category:1811年生|せんけりんちん]]▼
[[Category:1865年没]]
[[en:Sengge Rinchen]]
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