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Yume149 (会話 | 投稿記録)
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'''道宗'''''(どうそう、[[1032年]] - [[1101年]][[1月13日 (旧暦)|1月13日]]、在位[[1055年]][[8月28日 (旧暦)|8月28日]] - [[1101年]]1月13日''は[[中国]]の北方遊牧民王朝・[[遼]]の8代皇帝。姓は'''耶律'''(やりつ)、名は'''洪基'''(こうき)、契丹風の[[字]]は'''涅鄰'''(ねりん)、幼名は'''査刺'''(さらつ)。道宗は死後7代皇帝・[[興宗 (遼)|興宗廟号]]の長子で、母は[[仁懿皇后諡|帝号]]は'''仁聖大孝文皇帝'''
 
遼の7代皇帝・[[興宗 (遼)|興宗]]の長子で、母は[[仁懿皇后]]蕭氏。早くから[[儲君]]に定められ、朝政に参加した。[[重熙 (元号)|重熙]]二十四年([[1055年|1055]])八月、死去した興宗のあとを継いで即位。はじめに興宗の同母弟・[[耶律重元]]を[[皇太叔]]および[[天下兵馬大元帥]]としたが、[[清寧]]九年([[1063年|1063]])七月、重元・[[耶律涅魯古|涅魯古]]父子が謀反を起こすと、母后仁懿皇后が中心となって、[[耶律仁先]]・[[耶律乙辛]]らに命じてこれを平定した。[[咸雍 (元号)|咸雍]]二年([[1066年|1066]])、[[国号]]「[[契丹]]」を改めて「大遼」とした(契丹から遼への改名は二度目)。
 
在位の初めこそ、「直言を求め、治道を訪ねる」(「[[遼史]]」)という宗旨のもと、[[勧農]](農業の振興)・[[興学]](学校の建設)・[[救災]]などに努めたが、やがて遊猟と造寺にふけて政治を顧みなくなり、耶律乙辛の専権を許した。乙辛は聡明な[[皇太子]][[耶律濬]]を忌避し、[[大康 (元号)|大康]]元年([[1075年|1075]])十一月、まず皇太子の生母である[[蕭観音|懿徳皇后]]を道宗に讒言した。乙辛と組んだ[[宰相]][[張孝傑]]の証言によって皇后の不貞を信じた道宗は激怒し、皇后に自殺を命じた。乙辛はついでに皇太子を無実の罪に陥れ、道宗に説いてこれを幽閉の末暗殺した。乙辛は自分に近い皇后を立て、ますます専権した。
 
しかし、道宗の皇子は皇太子ひとりであったため、年老いた道宗は子を憶う心が強まり、遂に故皇太子の子延禧を召して[[皇太孫]]に立てた。道宗も徐々に乙辛の陰険さを悟るようになり、不安に感じた乙辛は大康七年([[1081年|1081]])、皇太孫に加害しようとして露顕し、翌々年、兵器を匿い[[北宋|宋]]に逃亡しようとした所を誅殺された。これで漸く皇太孫の地位が安定し、道宗朝の政治の混乱は収まった。道宗は[[寿昌 (元号)|寿昌]]七年([[1101年|1101]])正月、七十歳で行宮にて死去。[[遺詔]]によって、後を孫の燕国王延禧が継いだ(これが遼最後の皇帝である[[天祚帝]])。
 
道宗の時代は、皇帝の暗愚と奸臣の専権によって、忠臣が迫害されたり貴顕間の軋轢が続いたりして、遼の朝政は乱れに乱れた。また、土地の兼併が進むにつれ民衆の不満が募り、ことに圧迫を受けた[[異民族]]の[[女真]]は反抗に立ち上がった。女真の反乱は、道宗の死後二十五年目には、遼を滅ぼす烈火となるのであった。このような世の中であるのに、道宗は[[仏教]]に浸り、[[寺院|堂塔]]の建立や[[僧尼]]への布施に巨額の[[国費]]を使い流し、仏寺・僧尼の氾濫を助長した。次代に災禍の種を存分に蒔いた道宗の四十七年に及ぶ在位を、遼を全盛から衰亡へ導いた半世紀と言っても過言ではあるまい。遼の正史である「遼史」も、手厳しい批判を下している。
 
[[Category:中国史の人物|とうそう]]
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[[Category:1101年没|とうそう]]
{{History-stub|とうそう}}
 
[[en:Emperor Daozong of Liao]]