「真田本城」の版間の差分

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築城は天文年間(1532-55)([[真田幸隆]])とも[[鎌倉]]時代(地元の豪族横尾氏あるいは真田氏)とも伝えられる。
 
天文十(1541)年に[[武田信虎]]、[[諏訪頼重]]、[[村上義清]]連合軍との戦い([[海野平の戦い]])により、[[滋野氏]]嫡流の[[海野棟綱]]と共に真田幸隆は本領を奪われる。この当時真田本城については資料が残されておらず、不明なが多い。
 
天文二十(1551)年に、[[武田信玄]]の命を受けた幸隆が[[戸石城]]を奪取して小県の本領を回復した後、真田幸隆や嫡男[[真田信綱|信綱]]・[[真田昌幸|昌幸]]の三代より渡って真田本城およびその支城群が整備され、[[真田昌幸]]の代に[[上田城]]に移るまで真田氏の本城であったと考えられている。
 
== 真田本城の支城群 ==