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瀬尾のその後について加筆
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[[大石内蔵助]]は[[浅野内匠頭]]の家臣だが、なにせ1500石という高禄を賜っているので、大石家に仕える武士というのも存在した。そのうちの1人がこの瀬尾孫左衛門である。したがって浅野内匠頭から見れば孫左衛門は又家臣(家臣の家臣)である。本来、瀬尾に浅野家家臣の盟約に加わる資格はないのだが、大石内蔵助に懇願して特別に入れてもらったようだ。
 
瀬尾も士分であるので寺坂吉右衛門などの足軽層よりは上格であっただろうが、又家臣である以上、士分の同志達の中での序列は、もっとも低かったはずだ。しかし内蔵助の瀬尾への信任は厚かったようで、[[元禄]]15年([[1702年]])10月、内蔵助が[[江戸]]下向の途中に[[川崎市|川崎]]平間の百姓[[軽部五兵衛]]の家の離れに滞在した際には瀬尾孫左衛門の名義で借りている。内蔵助が江戸へ入った後も足軽[[矢野伊助]]とともに川崎平間村を留守していたが、吉良邸討ち入り直前の12月12日になって矢野とともにどこかに逃亡した。その後の消息は不明である
 
 その後の消息は不明であるが、一説には赤穂に戻り、剃髪して休真と号したという。討ち入りから間もない元禄16年([[1703年]]、ただし年号は推定)2月26日に内蔵助の妻[[大石りく|理玖]]が「休真」に送った手紙の写しとされるものが『赤穂義人纂書』に収められていることからすると、寺坂と同様、瀬尾の逐電も単純な「逃亡」ではない可能性がある。
 
[[Category:元禄赤穂事件関係人物|せおまこさえもん]]