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'''アウグスト・ベーベル'''('''August Bebel''', [[1840年]][[2月22日]] – [[1913年]][[3月18日]])はドイツの[[社会主義]]者。[[ドイツ社会民主党]](SPD)の創設者の一人。
[[Image:August Bebel 2.jpg|200px|right|アウグスト・ベーベル]]
[[1840年]]2月22日、[[ケルン]]近郊のドイツ [[:de:Deutz|Deutz]] で生まれる。[[1853年]]から徒弟工となる。
[[1860年]]、[[ライプチヒ]]に移り、[[ライプチヒ労働者教育協会]]に入り、理論的指導者となる。労働運動の中で[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]と出会い、[[18671866]]に[[ザクセン人民党]]を、[[1869年]]には[[社会民主労働者党]](SDAP)([[アイゼナハ派]])を創設した。[[1870年]]、[[普仏戦争]]の最中反戦運動を行ない、大逆罪・不敬罪により[[ヴィルヘルム・リープクネヒト]]とともに逮捕、禁固刑に服した。
 
[[1875年]]、[[全ドイツ労働者協会]](ADAV)([[(ADAV、ラサール派]])と合併し、[[ドイツ社会民主労働党]](SAPD)を結成([[ゴータ大会]]した[[1890年]]、[[ハレ]]の党大会]]で[[ドイツ社会民主党]]に改名。[[1891年]]、[[フリードリヒ・エンゲルス]]、[[カール・カウツキー]]らとともに[[エルフルト綱領]]の確立に尽力。1890年代末、党内で[[修正主義]]論争が起こるが、[[1903年]][[ドレスデン党大会]]で、ベーベル、[[カール・カウツキー]]らのいわゆるマルクス主義中央派が主導権を確立。
 
[[1893年]]から死に至るまで[[ドイツ社会民主党]](SPD)の党幹部会議長を務め、[[帝国議会]]の議員も務めた。また、[[第二インターナショナル]]においても指導的役割を果たした。
 
[[1913年]]3月18日、スイスの保養地で滞在中に死去。[[チューリッヒ]]で埋葬された。