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{{皇室祭祀}}
'''招魂祭'''(しょうこんのまつり)は日本の[[陰陽道]]・中国の[[道教]]で行われる祭祀・呪術のひとつ。宮中でも行われた。

== 概略 ==
日本の[[陰陽道]]では衰弱している生きた人間の活性化のため、中国の道教では死者の霊魂の離散防止のためとして行われる。[[神道]]の生者・死者の双方に対する[[鎮魂祭]]とは別のものである。
 
近代に新しく[[靖国神社]]・[[招魂社]]などで死者に対して始められた「招魂祭」(しょうこんさい)については[[靖国神社]]参照。
 
== 概略日本の陰陽道 ==
=== 日本の陰陽道 ===
平安時代の中頃から貴族社会に浸透した。初見は『小記目録』第8巻「御祭事付解除」の「永延二年十月十一日招魂祭時」という記述。「永延二年」は988年。人には「魂」というものがあると信じられ、熟睡したり悩み事に屈託したときには衰弱した肉体からその「魂」が遊離すると考えられていた。そのため、病気やお産などの際に身体から遊離した魂を屋根の上で衣を振るなどして招き戻す祭祀を行った。生者に対して行う祭祀であり、死者に対して行うことは禁止されていた。禁を破った者は罰せられた(『左経記』1025年8月23日条)。[[1025年]]8月の[[藤原嬉子]]の死去に際し[[陰陽師]]の中原恒盛は招魂祭を行い、祓を科せられそうになったという。日本の[[陰陽道]]では死者に対しては行わない点が中国の[[道教]]との大きな相違点である。
 
 
=== 用例と鎮魂祭との混同・区別 ===
用語としては『[[日本書紀]]』巻第29、天武天皇14年11月24日(丙寅)条に「是日為天皇'''招魂'''之」とあるが、『釈日本紀』巻21秘訓6 <ref>卜部兼方『釈日本紀』経済雑誌社、1898年、835頁。この指摘は下掲の渡辺勝義『鎮魂祭の研究』による。</ref>はこの「招魂」を「ミタマフリス」と訓じ、同書巻15、述義11では「今鎮魂祭也」として、『日本書紀』の「招魂」の記述を「[[鎮魂祭]]」のこことしている。[[伴信友]]も『鎮魂伝』で「例の漢ざまに傚ひて、招魂と書なされたるもの」 <ref>『伴信友全集』第2巻、国書刊行会、1907年、653-654頁。この指摘は下掲の渡辺勝義『鎮魂祭の研究』による。</ref>としている。伴信友はまた「比古婆衣」第20巻で「後醍醐天皇日中行事に、日毎'''せうこん'''の御祭、今は定まれる事なり、とある'''せうこん'''は'''招魂'''にて、こは'''鎮魂'''にはあらず、陰陽家にて別に'''招魂祭'''とて為る方なるべし」 <ref>伴信友「比古婆衣」第20巻「美多萬乃布由、又美多萬乃布利といふ事の考」。所収、『伴信友全集』第4巻、国書刊行会、1907年、436頁。この指摘は下掲の渡辺勝義『鎮魂祭の研究』による。</ref>と述べて、'''招魂祭'''と'''[[鎮魂祭]]'''との区別を明確にしている <ref>これらの指摘は渡辺勝義『鎮魂祭の研究』(名著出版・1994年)201-209頁による。</ref>。
 
=== 中国の道教 ===
[[道教]]では死者に対しても招魂祭を行う。但し、復活の儀式ではない。たとえば紀元前の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]の『[[楚辞]]』には宋玉の「招魂篇」では罪なく奸人に追われて死んだ[[屈原]]を偲び、その魂の離散を恐れ、呼び戻す為に行われている。『[[楚辞]]』九歌の「国殤」には「身既に死して神以て霊・魂魄毅として鬼雄となる」とある。現在でも死んでから1~3年後に常設の「神主(しんしゅ)」(儒教でも用いる。仏教の位牌にあたるもの。)に名前を記し、新たな先祖として祀る。すると、一種の鬼でありつつ、子孫の幸福・安全を守る[[先祖]]となるとされる。
 
== 注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==
*[[鎮魂]]
 
== 注 ==
<references />
== 参考文献 ==
*岩波書店版『日本史辞典』(CD-ROM版、2000年)。