「ミカエル2世アンゲロス・コムネノス」の版間の差分

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'''ミカエル2世アンゲロス・コムネノス'''(Μιχαήλ Β' Άγγελος Κομνηνός Δούκας , Michael II Angelos Komnenos Doukas, ?-[[1271年]])は、[[エピロス専制侯国]]の専制公。[[ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス]]の庶子(在位[[1237年]]-1271年)。妻テオドラ・ペトラリフィナは[[ヨハネス・ぺトラリファス]]の娘。自称では「ミカエル・ドゥーカス」を多く用いた。中世ギリシア語表記では'''ミハイル2世アンゲロス・コムニノス・ドゥカス'''。
 
==経歴==
[[1230年]]には既にエピロス地方の統治に携わっていた。1237年、叔父の[[テッサロニキ]][[皇帝]][[マヌエル・コムネノス・ドゥーカス|マヌエル・ドゥーカス]]によって専制公称号を与えられる。同年、ブルガリア遠征に敗北し捕虜となっていたマヌエルの兄[[テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス|テオドロス]]が帰国してマヌエルを追い出した為、ミカエルは[[テッサリア]]に逃れたマヌエルを支持してテオドロスとその息子[[ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公)|ヨハネス]]に対抗し、エピロス専制公侯国は分裂と衰退の兆候を見せる。ミカエルは[[1241年]]、マヌエルの死によってテッサリアを併合し、専制侯国の再建に乗り出した。
 
[[1251年]]、勢力拡大を図って[[マケドニア]]に侵攻したが、失敗して[[1253年]]、和睦を結ぶことを余儀なくされた。[[1257年]]、[[ニカイア帝国]]と対抗するため、[[シチリア王国|シチリア王]][[マンフレーディ]]や[[アカイア公国|アカイア公]][[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン]]と同盟を結んだ。そしてこの同盟を背景にして[[1259年]]、ニカイア帝国軍と[[ペラゴニア]]にて戦ったが、ニカイア帝国軍のミカエル・パレオロゴス(のちの東ローマ皇帝・[[ミカエル8世パレオロゴス]])の優れた指揮により、統一に欠け、士気も団結力も乏しかった同盟軍は大敗を喫し、エピロスの首都・アルタはニカイア帝国によって占領されてしまったのである。
 
[[1261年]]、ミカエル・パレオロゴスによって[[東ローマ帝国]]が再興されると、その3年後の[[1264年]]にミカエル2世はミカエル8世の宗主権を承認したのであっする事を余儀なくされた。
 
ミカエルの没年については[[1267年]]と[[1271年]]の2説あり、本項目では後者を採用している。彼の死後、エピロス専制公国は嫡子[[ニケフォロス1世 (エピロス専制公)|ニケフォロス1世]]のエピロスと庶子[[ヨハネス1世ドゥーカス]]のテッサリアとに系統分裂した。
 
==家族==
妻テオドラ・ペトラリフィナ(Θεοδώρα Πετραλιφίνα)はエピロスの有力貴族[[ヨハネス・ぺトラリファス]]の娘。四男三女が生まれた。
*女子(個人名不明)  アレクシオス・ラウルの妻
*[[ニケフォロス1世 (エピロス専制公)|ニケフォロス1世]]
*ヨハネス(Ιωάννης)  東ローマ宮廷に預けられ、武将として活動。後、[[1280年]]に目潰しの刑を受け、直後に自殺。
*デメトリオス-ミカエル(Δημήτριος-Μιχαήλ)  デメトリオスは幼名。後、父ミカエルが東ローマ皇帝ミカエル8世の宗主権を承認した際にいわば人質の形で[[コンスタンティノポリス]]宮廷に預けられ、ミカエル8世の娘アンナ・パレオロギナと結婚し、義父の名を貰い受けてミカエルと改名すると共に専制公称号を与えられた。[[1304年]]、[[ブルガリア帝国|ブルガリア皇帝]][[トドル・スヴェトスラフ]]との通謀に問われ失脚。
*[[ヘレナ・アンゲリナ・ドゥーカイナ|ヘレネ]]  [[シチリア王国|シチリア王]][[マンフレーディ]]の妻
*アンナ(Άννα)  [[アカイア公国|アカイア公]][[ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアン]]の妻
*テオドロス(Θεόδωρος)  [[1257年]]没
 
 
*[[ヨハネス1世ドゥーカス]]  庶子
 
 
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