「オリビエ・グルイヤール」の版間の差分
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==経歴==
1984年にフランス[[フォーミュラ3|F3]]選手権を制した後、国際[[フォーミュラ3000|F3000]]を経て1989年に
===1989年===
1990年には[[オゼッラ]]に移籍。1991年には[[フォンドメタル]]に改称した同チームから出走を続けたが低迷しシーズン終盤に解雇、ガブリエル・タルクィーニとトレードという形で1レースのみ[[AGS_(F1)|AGS]]で走った(チームはそのレース限りで撤退)。1992年は[[ティレル]]にシートを確保。しかし速さ、安定性ともチームメイトの活躍の影に隠れて低迷した。▼
1989年は[[リジェ]]から出走。予選落ちも4度喫するなど、チーム低迷期故下位グリッドに埋もれることも多かったが、時折10位・11位等の好グリッドに付けていた。決勝でも4度のシングルフィニッシュを記録し、うち第7戦[[フランスグランプリ]]では6位入賞を果たしている(結果的にはこれがF1唯一の入賞となる)。
===1990~1991年===
▲1990年には[[オゼッラ]]に移籍
結果は残せていなかったものの、[[予備予選 (F1)|予備予選]]通過もままならないマシンで、時折上位グリッドに食い込んでいたことから、この時点では「グルイヤールは、良いマシンに乗せれば速いのでは」と考えていた人物も多かった。
===1992年===
1992年は[[ティレル]]にシートを確保。移籍初戦の南アフリカGPでは予選12位につけるも、その後は、速さ・安定性ともチームメイトの[[アンドレア・デ・チェザリス]]の影に隠れることとなる。予選では2勝14敗。決勝でも、チェザリス活躍の裏で低迷し、リタイヤも全16戦中12度を記録。特に終盤は、7戦連続でのリタイヤを喫している。
この年チームは8ポイントを稼ぎ、コンストラクターズ選手権6位となるが、全てチェザリスが獲得したものだった。グルイヤールは第5戦サンマリノGPでの8位が最高であり、ノーポイントに終わっている。
結果が出せなかったことは評価の低下に繋がり、結局この年をもってF1から姿を消すこととなった。
===1993年以後===
F1を去った後は、[[CART]]、[[FIA-GT]]など様々なレースを転々とした。
==エピソード==
周回遅れの時にも優勝争いやポイント争いをしているドライバーに進路を譲らない事から、上位ドライバーからはよく怒りのポーズを掲げられることがあった。また弱小チームに所属していたため車も性能が悪く、よくエンジンブローを起こし、コース上にオイルをよく撒き散らすシーンが見られ、頻繁に後続車に迷惑を掛けた。
日本でのテレビ中継ではこうした行為や様子に対して、[[古舘伊知郎]]から「周回遅れの天才ブロッカー」や「ミラーを見ない男」「[[妖怪]]油すまし」などと揶揄されていた。 {{Sportspeople-stub}}
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