削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
5行目:
{{武士/生誕|[[天文_(元号)|天文]]10年([[1541年]])?}}
{{武士/死没|[[文禄]]元年([[1592年]])?}}
{{武士/別名|尾張守、上総介(通称)<br>信実、信真、信定}}
{{武士/主君|[[山内上杉氏]]→[[武田信玄]]→<br>[[滝川氏]]→[[後北条氏]]→[[真勝頼|勝頼]]<br>}}
→[[滝川一益]]→[[北条氏直]]→[[真田昌幸]]}}
{{武士/氏族|[[小幡氏]]}}
{{武士/父母|父:[[小幡憲重]]}}
{{武士/妻|[[正室]]:[[長野業正]]の娘}}
{{武士/子| }}
{{武士/終了}}
 
父は上野小幡氏の[[小幡憲重]](重貞、重定)。(ただし、[[小幡重貞|重貞]]と名乗ったのは信貞とも、[[小幡信真|信真]]や[[小幡信定|信定]]は信貞の子の名ともいわれ、はっきりしない)。尾張守、上総介を称す。[[上野国|上野]][[国峯城]]城主。[[甲陽軍鑑]]によれば憲重と併せて500騎持ち。
 
信貞の[[小幡氏]]は、[[小畠虎盛|小幡虎盛]](小畠虎盛)・[[小幡昌盛|昌盛]]・[[小幡景憲|景憲]]などの甲州小幡氏とは同族の別系で、彼等の本流にあたる(甲州小幡氏はこの[[小幡氏]]から家紋と姓とを譲られたともいう)。[[小幡氏]]は元々[[上野国|上野]]の国人であり、父の憲重の時代に一族の内紛により[[山内上杉家]]や[[上野長野氏|長野氏]]から離反し[[武田信玄]]に仕えていた。信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、[[三増峠の戦い]]や[[三方ヶ原の戦い]]等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。[[1575年]]、[[長篠の戦い]]で父が戦死したため、家督を継いだとされるが異説もある。[[甲陽軍鑑]]中に「信用できない[[木曽義昌]]の代わりに(織田領との国境である)[[木曽]]に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、甲陽軍鑑の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である
 
[[小幡氏]]は元々[[上野国|上野]]の国人であった。父の憲重の時代に起こった一族の内紛により、[[上杉憲政]]の臣である[[上野長野氏|長野氏]]から離反し[[武田信玄]]に仕えていた。信貞も父と共に信玄に仕えて、上野攻略戦を始め、[[三増峠の戦い]]や[[三方ヶ原の戦い]]等の主要な合戦に参加して武功を挙げている。
[[天正]]10年([[1582年]])[[武田氏]]が[[織田信長]]によって滅ぼされると、信長に降伏して[[滝川一益]]の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が[[本能寺の変]]で横死、それを受け[[北条氏直]]が滝川一益を[[神流川の戦い]]で破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。<br>
 
[[1590年]]の[[小田原征伐]]で[[北条氏]]が滅亡すると、武士を辞め、[[真田幸隆|真田幸綱]]の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった[[真田氏]](当時の当主は[[真田昌幸|昌幸]]で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。享年52。
[[1575年]]、[[長篠の戦い]]で父が戦死したため、家督を継いだとされるが異説もある。[[甲陽軍鑑]]中に「信用できない[[木曽義昌]]の代わりに(織田領との国境である)[[木曽]]に小幡を入れたらどうか」という意の記述があり、甲陽軍鑑の信憑性はともかくとして、準譜代的な扱いを受けていた様である。
 
[[天正]]10年([[1582年]])[[武田氏]]が[[織田信長]]によって滅ぼされると、[[家老]]・[[森平策之進]]の献言を容れて、信長に降伏して[[滝川一益]]の与力として配属させられた。しかし、同年に信長が[[本能寺の変]]で横死、それを受け[[北条氏直]]が滝川一益を[[神流川の戦い]]で破り織田氏の勢力を上野から駆逐したため、信貞は氏直に降伏して北条氏の家臣となった。<br>
 
[[1590年]]の[[小田原征伐]]で[[北条氏]]が滅亡すると、武士を辞め、[[真田幸隆|真田幸綱]]の流浪時代から武田氏時代を通じて親交の深かった[[真田氏]](当時の当主は[[真田昌幸|昌幸]]で勝頼時代は上野方面攻略の責任者)を頼り、そこで余生を送った。1592年に死去。[[享年]]52。
 
一説では、父の憲重は大永年間に死去し、父の憲重の事績とされる事柄は信貞のことだとも言われている。また、[[赤備え]]の部隊を率いた勇猛果敢な武将であり、[[信長公記]]中の長篠合戦の項に小幡勢について「馬上巧者」の記述がある。[[武田二十四将|武田氏24将]]の一人として数えられる。長篠の戦いで戦死したともいわれることがあるが、戦死したのは信貞の弟とされている。
28 ⟶ 34行目:
 
[[en:Obata Nobusada]]
[[de:Obata Nobusada]]
[[fr:Obata Nobusada]]
[[pl:Obata Nobusada]]