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明治40(1907)年9月、アメリカの新聞社([[シカゴ]]・トリビューン紙)が「'''ミスワールドコンテスト'''」を企画。
時事新報社が打診を受け日本予選として明治41年[[3月5日]]、「日本美人写真募集」と銘打って大々的な全国キャンペーンを展開した。
[[芸妓]]・[[女優]]・職業モデルなどは参加不可、自薦他薦は問わない。
『新興の日本帝国は、一事一物決して 人後に落つべからざるのみならず、場合によりては自ら進んで大いに薦むるの必要あるに当り、あたかも良し、此挑戦状は、我に与ふるに絶好の機会を出てせるものに非ずや。(中略)遂に断然応諾の書を作り、敢て'''日本美人写真募集'''の大計画を発表せり。』
(時事新報社による趣意)
総額3000円相当の商品が贈答されるということもあって、7,000名もの応募があった。
審査は写真選考のみで、洋画家の[[岡田三郎助]]、彫刻家の[[高村光雲]]、歌舞伎俳優の[[中村芝翫]]など芸術界、芸能界を代表する各界著名人13名が審査
==ミス日本==
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